棚守と宝蔵と戦国大名の関係

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棚守と宝蔵と戦国大名の関係

まとめ
●棚守とは厳島神社宝蔵を管理する役職のこと。
宝蔵には平家納経などの歴史的な美術品があった。
●戦国の大名には「文化のトップが権力者」という感覚があった。
宝蔵の美術品を見ることが、大名の箔をつける。
●結果、棚守に影響力が生まれる。

棚守とは

宝蔵(厳島神社宝蔵)を管理する役職が「棚守」。
宮島には棚守屋敷跡があります。ここに住んでいたのが棚守と言う人物です。棚守は現在の厳島に子孫がいます。さて、その棚守という氏族がいて、この宝蔵の管理をしていました。その棚守が戦国時代の終わりに大内義隆・毛利元就・毛利輝元などの庇護を受けて厳島神社の実権を握ります。これには当時の棚守房顕の慧眼ともいうべき時流を見る能力もあったのでしょうが、一つとして宝蔵を管理するというのが、今の我々が考えるよりも価値のある仕事だったというのもあります。

宝蔵は宝の山

宝蔵には歴代のお宝が眠っています。中には平家納経と呼ばれる歴史的美術品もありました。これらを閲覧するためには、まず神に伺いを立てなくてはいけません。これに関しては明治にも、そういう手順を踏んだ記述が残っています(明治維新時に宝蔵の品を調べることがあって、その時も占いをして伺いを立てている)。伺いを立てて、神慮に沿うならば、宝蔵の宝を閲覧できる。その管理をしているのが棚守というわけです。

歴史の背景

話は大きく遡ります。
平安時代に日本の政府(朝廷)は、死の穢れを嫌うあまりに軍隊を放棄しました。しかし軍隊がなくなっては国内の治安を維持することが出来ません。京都で軍隊を保持しているのは寺社だけという異常事態になりました。そこで武士が台頭します。武士を使って国内の問題を解決していたのですが、結局、武士が実権を握るようになりました。それが鎌倉幕府です。その後、鎌倉幕府が元寇で弱体化すると室町幕府が成立します。室町幕府は京都に開き、そこでそれまで分離していた「武(武士)」と「文(公家)」を合体させました。それは南北朝の統一という意味もありました。細かいことは割愛しますが、室町幕府は武士が文化も把握したことに特殊性があります。金閣寺や銀閣寺はその象徴ですね。つまり権力者は武の王だけでなく、文化の王でもあるというのが、この時の理想の権力者像だったんです。この考えを戦国時代の大名が引き継ぎます。
文化と権力者
室町時代ほどではないんですが、戦国時代の大名は文化を重んじました。文化を重んじることが権力者の条件という感覚があったからです。そこで厳島神社の宝蔵の美術品に意味が生まれることになります。これらの美術品を見た、というのが、権力者のステータスだったんじゃないか?ということです。美術品を見たということは神慮に叶ったということであり、神に選ばれたということ。そして文化的であると認められたということ。そんな人物こそが大名にふさわしい…そう考えていたのでは無いでしょうか。
●文化を重んじた大名の代表的なのが大内義隆。大内は代々、京にならって街を作ったり、文化を取り入れて来た。これは室町時代からの「文化のトップが権力のトップ」という感覚があった。もちろん、中国との貿易で利益を上げていたことが大きい。

棚守の権力の土台が宝蔵

その仲立ちをしたのが「棚守」です。
棚守はほぼ神に等しい力があった…そう捉えることも可能です。少なくとも文化を重んじた大名にとってはそうだったでしょう。
棚守が厳島神社で実権を握ったのはそういう側面があったのではないかと思います。
●棚守は戦国から江戸にかけて、厳島神社で実質的に権力者になる。ところが「棚守」という役職はあくまで「下っ端」。ただの宝蔵の管理人。それがなぜ、神社を動かす権力を持ったのか。それは大内や毛利に「棚守房顕」が援助を受けたから。その理由に、上記のようなことがあった…のではないかということです。

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