宮島ホテル

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宮島ホテル

まとめ
●日本が不平等条約を撤廃するよう交渉した結果、外国人が自由に日本国内を旅行できるようになった。
●宮島も「西洋人が泊まるホテル」が必要になり建てられたホテルが「宮島ホテル」。
●1952年に失火して消失。
●設計は原爆ドーム(広島県物産陳列館…もしくは産業奨励館)も設計したヤン・レツル。

宮島の発展と宮島ホテル

1897年に現在のJR宮島口駅(当時は宮島駅)ができて、宮島桟橋と宮島口との間に蒸気船が運行されるようになりました。そして1899年に江戸時代に結んだ不平等条約を改正した結果、国内の外国人居留地は廃止されて、その結果、外国人が日本国内を自由に旅行できるようになりました。
●不平等条約で、列強諸国には治外法権・領事裁判権が外国側にありましたが、これは「居留地」があったからです。
●居留地から移動できないが、そこで起きた事件は、本国の法律によって裁かれるわけです。
●日本に取っても外国人が国内をウロウロするよりは居留地に閉じ込めておく方が何かと便利ですから「不平等条約」ってのは実は日本にとって都合が良いという面もありました。ですが、このまま不平等なままでは面子に関わります。
●列強諸国が治外法権・領事裁判権を持ったのは、「未開で野蛮なアジア人である日本の風俗やルールで、裁かれたらたまらない!」という自衛のためでもありました。
●この条約改正で、居留地がなくなり、国内を外国人が旅行するということは、列強が日本人を「未開ではなく、野蛮ではない」と認めたということです。

すると、観光地として見るものの多い宮島にも外国人が訪れるようになりました。しかし、当時の宮島には旅館はあっても、ホテルはありません。旅館は日本人には過ごしやすいですが、ベッドじゃないと眠れない外国人には、厳しい。そこで「西洋風のホテル」が求められました。

その結果、生まれたホテルのひとつが「宮島ホテル」です。
宮島ホテルは木造4階建ての洋風建築ですが、一部に和風のデザインも取り入れられていました。内装は洋風。テニスコートもありました。チェコ出身のヤン・レツルが設計しています。ヤン・レツルは原爆ドーム(当時は広島県物産陳列館…もしくは産業奨励館)も設計した人物です。

戦後はイギリス連邦軍が駐屯していました。
1952年に失火し焼失して、現在はありません。
●宮島ホテルは、日本が戦争に負けると、イギリスに接収されてしまいました。
●返還の直線に消失しました。
●現在でも宮島ホテルのことを懐かしむ記事があります。
●それは宮島ホテルが宮島の観光地化のシンボルだったからでしょう。
●宮島ホテルは高級なホテルでした。宮島を高級観光地としたのは宮島ホテルだった。
●今とは違う。

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