撰集抄(センジュウショウ)の厳島神社・宮島に関する記述

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撰集抄の厳島神社・宮島に関する記述

まとめ
●撰集抄は西行という僧侶が書いた本、とされるが実際は西行が書いたことにして全国各地の物語をまとめた仏教説話集。鎌倉時代に成立した。
●撰集抄に厳島神社に関する記述がある。
●現在の厳島神社の状況と似ている部分も多くあり、ある程度の信憑性があると思われる。

参考平安時代末期、清盛と政治的に時に対立し、時に協力しあった「後白河法皇」の書いた今様に関する本の梁塵秘抄の中にも記述がある。
梁塵秘抄の厳島神社(宮島)の記述

撰集抄(センジュウショウ)とは

撰集抄は西行という僧侶が書いたとされている仏教説話集。西行が各地を放浪してその土地その土地の物語を書いたものになっていますが、どうやら西行が書いたのではなく「各地を放浪する西行に語らせる」形式をとっているだけ。西行が書いたものではない。成立は13世紀中葉、建長2年(1250年)頃か、少なくとも弘安10年(1287年)頃までの成立。
内容は結構怪しい。
ただ、厳島神社の記述は現在の状況とかなり近いもので、ある程度の信ぴょう性がある、と思う。

撰集抄の厳島神社の記述

安芸の厳島の社は、後ろ山深くしげり、前は海、左は野、右は松原なり。東の野の方に、清水、清く流れたり。これを「御手洗(みたらひ)」といふ。
御社、三所におはします。また少し前の方に引きのきて、南北へ三十三間、東西へ二十五間の廻廊侍る。潮の満つ時は、かの廻廊の板敷の下まで海になり、潮の引く時は、白砂子(しらすなご)五十町ばかりなり。

しかあれば、潮のさしたる時回れば、船にて廻廊までは参るなり。気高し。いみじきこと、たとへもなく侍る。
ただし、いかなる御ことやらむ、御簾の上には御正体の鏡を懸け参らせで、御簾より下に懸け参らするなり。かの御神は、女房神にておはしますなれば、かくはならわせるやらん。
おほかたは、御社は山上に上がり、廻廊は平地にあり。東西南の三方はれわたりて、ことに心も澄み侍り。所に獣(しし)を狩らざれば、御山には男鹿啼き、草に露落ち、野地東なれば虫の声盛りに侍り。
何心なき人も、この御社にては心の澄むなると、申し伝へて侍り。

現代語訳

安芸の厳島神社は、後ろの山は深く茂っていて、前は海、左は野、右は松原です。東の野の方向に清水が清らかに流れています。これを「御手洗川」と言います。
この神社は三所にいらっしゃいます。また、少し前の方に引きのきて、南北へ33間、東西へは25間の回廊があります。潮が満ちたときはこの回廊の板敷の下まで海になり、潮が引いた時には、白砂子(=白浜)が50町(1町=3000坪=9900㎡)ほどになります。

なので、潮が満ちたときに参拝すると、船で回廊まで行きます。美しく素晴らしい様子は例えるものもありません。
ただし、どういう理由なのか、御簾の上に御正体(=神の依代)の鏡をかけないで、御簾より下にかけています。この神は女房神でいらっしゃるから、このようになっているのだろうか。大かた御社は山上にあがり、回廊は平地にあり。東西南の三方は晴れ渡り、とても心が澄んでいきます。ここでは鹿を狩らないので、御山には雄鹿が鳴いていて、草に露が落ちて、野路が東で、虫の声が盛んに鳴いている。心のない人であっても、この御社では心が澄み渡ると申し伝えられています。

解説

厳島神社は、後ろの山は深く茂っていて、前は海、左は野、右は松原です。

現在の神社も後ろに山、前が海なのは同じですが、「左は野、右は松原」ではないです。現在は「左に松原(=西松原)、右に岬(千畳閣がある丘=塔の丘)」です。ただし西松原は戦国時代以降に生まれたもので、西松原がなかったら「野」でしょうし、塔の丘の向こう側、現在の町家通りの奥(島側)が松原(=松の生える原っぱ)だったのかもしれない。

東の野の方向に清水が清らかに流れています。これを「御手洗川」と言います。

現在も御手洗川が厳島神社の裏、つまり東側に流れています。

この神社は三所にいらっしゃいます。

厳島神社が平安時代でも「三つの神」を主に祀っていたので、そのことかもしれませんが、「三所」は本殿・客神社大国神社のことかもしれないと個人的には思う。

南北へ33間、東西へは25間の回廊があります。

この場合の「1間」というのがどういうものか、どのくらいの長さかは分からないのですが、この数字を考えると、現在のような横長な回廊ではなく、「長方形」という形式だったのかもしれない。
この画像は鎌倉時代の「一遍上人絵伝」で描かれた厳島神社です、このような形状だったのかもしれない。

潮が満ちたときはこの回廊の板敷の下まで海になり、潮が引いた時には、白砂子(=白浜)が50町(1町=3000坪=9900㎡)ほどになります。

現在の厳島神社境内と状況は同じですが「50町」というのは誇張じゃないかと思いますね。

なので、潮が満ちたときに参拝すると、船で回廊まで行きます。美しく素晴らしい様子は例えるものもありません。

潮が満ちたときに鳥居をくぐって船で参拝するのが公式なものだ現在も言われています。

御簾の上に御正体(=神の依代)の鏡をかけないで、御簾より下にかけています。この神は女房神でいらっしゃるから、このようになっているのだろうか。

御簾の上か下というのは具体的にはどういう意味なのかちょっと分からない。
厳島神社の主祭神は現在は宗像三女神の市杵島姫ですが、これは戦国時代の終わりに祀るようになったので、撰集抄が成立した時代では伊都岐島大明神という正体不明の神。その神が女房神だというのは、この伊都岐島大明神が実は三つでセットの神で、どうやら夫妻子なんですね。そのうちの「妻」が主祭神として祀られていたから女房神という言い方になったのでしょう。その依代が鏡であり、祀り方が他の神社と違うというのが御簾の上か下かという言い方になったのでしょう。

大かた御社は山上にあがり、回廊は平地にあり。東西南の三方は晴れ渡り、とても心が澄んでいきます。

このあたりの記述がどうも怪しい。撰集抄の記述では、厳島神社の本社は山上(=山頂)にある、とでも取れる書き方になっている。でも、厳島神社はあくまで海の神であり、山とは関わりがない。ただ神社は山に奥宮(本来、神が鎮座するところ)があるもので、その常識からすれば「山に本社がある」と考えても不思議はない。
回廊は平地にあるということは、回廊は潮が満ちれば板敷近くまで海水がくるものの、陸と繋がっていたということになる。深読みすると、厳島神社の神は海からきて、山に登るという感覚があったのかもしれない。もしくは、参拝者は海からきて、神社を参拝した後に、陸に上がり山の仏教施設に参拝するという観光ルートがあったのかもしれない、とちょっと思う。

ここでは鹿を狩らないので、御山には雄鹿が鳴いていて、草に露が落ちて、野路が東で、虫の声が盛んに鳴いている。心のない人であっても、この御社では心が澄み渡ると申し伝えられています。

鎌倉時代から宮島では鹿を狩らないことが「常識」となっていたらしい。

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