卒塔婆石…平康頼の歌を書いた卒塔婆が流れ着いたとされる石

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卒塔婆石

名前卒塔婆石(ソトバイシ)
場所宮島厳島神社の境内内

卒塔婆石成立の経緯

鹿ケ谷の陰謀
平安時代の安元3年(1177年)6月。
平清盛と平家の権力が増大する中で、後白河上皇と貴族の人たちは平家をどうにかしたいと考えるようになります。それで謀反の謀議を鹿ケ谷という土地で行います。これが有名な「鹿ケ谷の陰謀」です。

鹿ケ谷での陰謀は、多田行綱が平清盛に密告したことでアッサリとバレます。あんまりにアッサリとバレたので平清盛の言いがかりじゃないのか?なんてことを言う人もいるくらいです。しかし、平家への不満が高まっていたのは事実で、この謀議の密告で、西光(藤原師光)は殺され、藤原成親(妹の夫が平重盛)すら殺された。謀議に参加した他の人物も捕らえられ罰されました。その中に平康頼がいました。
●平康頼は平清盛の弟の平頼盛の部下。清盛と頼盛は腹違いの兄弟でかなり微妙な関係だった。平家は一枚岩ではなかった。

平康頼は鬼界ヶ島へ
平康頼は俊寛・藤原成経(=藤原成親の子)とともに鬼界ヶ島(鹿児島の奄美大島の近くの島で喜界島か?)に島流しにあいます。そこで都に帰りたいと願う、平康頼は二首の歌を作り、その歌を1000本の卒塔婆に書いて流します。
●卒塔婆というのは、本来はストゥーパで仏塔のこと。仏塔は仏の骨…仏舎利を安置する供養の塔のことなんですが、それを簡略化して木の板にしたものが、卒塔婆。お墓に立てる板。康頼はこれに歌を認めたということになる。

二首の歌

ちなみに歌は
薩摩潟おきの小島に我ありと親にはつげよ八重の潮風
意味薩摩の沖の小島に私はいますよ、と親に伝えてください。いくつもの潮風よ。

思ひやれしばしとおもふ旅だにも猶ふるさとは恋しきものを
意味思いを馳せると、短いと思っていた旅でも、ふるさとは恋しいものです。

の二首。

親と故郷を恋しく思う歌です。
この歌を書いた卒塔婆を流し、「南無帰命頂礼、梵天帝尺、四大天王、堅牢地神、鎮守諸大明神、殊には熊野権現、厳島大明神、せめては一本なりとも、都へ伝へてたべ」と唱えます。この一本が厳島神社に流れ着きます。卒塔婆が流れ着いたことが京都で評判になったことで平清盛は平康頼を許し、鬼界ヶ島から帰還することになります。しかし、この時、帰還したのは平康頼と藤原成経だけ。鹿ケ谷の陰謀に参加した僧侶の俊寛はそのまま鬼界ヶ島で死んでしまいます。

この卒塔婆が流れ着いたのが厳島神社の「卒塔婆石」とされます。しかし、見た目が緩いと言うか弱いと言うか。現在は観光スポットとしてはかなり弱いです。しかし、江戸時代の芸州厳島図会では、観光スポットとしてかなり強い様子が書かれています。当時は平家物語を皆が知っていたってことでしょうね。

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