武士の台頭の歴史と平清盛

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平氏は桓武天皇の子孫

平清盛は伊勢平氏の人間。伊勢平氏というのは元をたどれば桓武天皇に当たる氏族です。つまり平氏は天皇の子孫なんです。
そもそも平氏が生まれた理由
平安時代になると、天皇の子のうち、どう考えても天皇に即位できそうにない子は氏姓を与えられて、「人間」になりました。皇子というのは朝廷の財源で支えないといけないから、全員を皇子として残すのはお金がかかってしょうがないんです。だから「源氏と平氏が生まれた理由」は変な言い方ですが「口べらし」なんです。源氏と平氏というのはそういう経緯で生まれたグループです。源氏と平氏が生まれたのはそういう「口べらし」もあるのですが、もう一つ理由があって、それが「対藤原」です。

源氏と平氏が生まれたのは「対藤原」も理由

藤原道長とか藤原氏は天皇に娘を嫁がせて、娘が生んだ子を天皇にして「天皇の父」というポジション(摂政関白)で権力を欲しいままにしていました。天皇はそれを甘んじて受けていたんじゃなくて、「こりゃいかんぞ」と思って幾つかの対策を打ちました。その一つが「源氏と平氏」です。天皇は自分の血族を「人間」にして、その血族を朝廷で働かせて、藤原に対抗する有力氏族にしようとしたのです。
●ちなみに菅原道真も「対藤原」で採用された人材です。策略で左遷されちゃったんですけどね。

地方に逃げる天皇の子孫
しかし源氏と平氏は藤原と対抗はしたものの藤原を駆逐することはできませんでした。そのうち増えすぎた源氏と平氏は中央から都落ちして地方で生活するようになりました。結局、増えすぎて朝廷内にも生きる場所が無かったんですね。その一つが清盛の平氏なんです。だから、平氏というのは清盛の「平氏」だけじゃなくて、全国に平氏っていたんです。源氏も大量にいました。だから武士になったのは言わば「落ちこぼれ」。元をたどれば天皇でも、分家で、その分家の中でも中央で仕事を失った「落ちこぼれ」が後に武士として台頭する源氏と平氏です。
●後に平清盛が太政大臣になって平氏の中から「平氏にあらずは人にあらず」という発言が出るのですが、これは「調子こいた」というよりは「落ちこぼれ平氏の劣等感が爆発した」というのが正解です。

清盛の父と祖父

では、どうして皇族の分家で人間に降格になった上に、地方に降って武士になった「落ちこぼれ」の平氏の一派が、ここまでになったのかというと清盛の父と祖父の時代に土台が出来上がっていたからなんです。清盛は平忠盛の子。忠盛の父親が正盛。清盛で頂点になって、その死後に没落するものですから「清盛はすごい」ってなるのですが、やっぱり父と祖父があってこその清盛です。

父と祖父は社会情勢にうまく乗っかったんですね。

出世の歴史背景

穢れと軍隊
当時、朝廷の運営にはある大きな問題があったのです。平安時代に朝廷はなんと「軍隊を廃止」します。ここには日本人特有の「穢れ信仰」があります。穢れたものを嫌うあまり、死を扱う軍隊を廃止したのです。現代の左翼が聞いたら狂喜乱舞しそうですが、軍備を廃止した結果、何が起きたのかというと「無秩序」でした。抑えつけるものが無くなり、秩序を保つ方法がなくなってしまいました。すると腕に覚えがあるものが、乱暴を働くようになりました。普通ならコレを政府が沈静化しないといけません。しかし朝廷は軍備を持っていませんからどうにもなりません。そこで地方の氏族は自分の身と領地を守るために武器を取るようになりました。それが「武士」です。

その代表が中央からあぶれた源氏と平氏でした。そのうち武士は朝廷の要請によって乱を沈静化したりするのですが、徐々に公家同士の代理戦争を行うようになり、源氏と平氏が「どっちが強い?」と戦うようになりました。まずは平氏が勝ち、平清盛の出世の土台を築くことになります。ここまでが清盛の父「忠盛」と祖父「正盛」までの経緯です。

英雄から一転、増長した問題児へ
最初は公家の代理戦争なんですが、まぁ冷静になれば、なんで公家の言うことを聞かなきゃいけないんだ?と思うようになりますよね。それに軍備を嫌った公家たちからしてみれば、平氏は秩序をもたらす英雄です。平氏がいないともはや社会は成り立たない。だから平氏をもてはやしました。徐々に平氏は増長するようになります。

しかし平氏の失敗は増長したことではなく、「これで満足した」というところにありました。

平氏の失敗とは朝廷を壊さなかったこと

武士が生まれたのは「朝廷の穢れ信仰」が原因です。穢れを嫌うあまりに軍隊を廃止した朝廷にはもはや「政権運営能力がない」のです。その資格がない。ところが、平清盛は太政大臣になり、天皇に娘を嫁がせて、これまで藤原氏が行ってきた摂関政治を「平氏で行おう」としました。
これはまずい。
すでに運営が破綻している朝廷を壊そうとはせず、そのままにしてしまった。

それに対して朝廷を否定し、鎌倉幕府という「実質的政治運営」を行ったのが源頼朝です。つまり源頼朝の方が先見性があり、考えがしっかりとしていたのです。ただ、鎌倉幕府が生まれたのは結局、平氏の「朝廷を壊さない」という失敗があり、そこに多くの氏族が「もう朝廷じゃ日本は運営できないな」「日本を引っ張るのは源氏」という判断があってこそのことなんです。
●源頼朝が源義経を否定したのは、義経が朝廷におもねったからです。義経は清盛の失敗を繰り返そうとしていた、少なくとも、源頼朝にはそう見えたわけです。
●北条政子の「いざ鎌倉」というのは「おいおい、あのポンコツ朝廷にまた政権を預けていいのかよ? ダメだろ? じゃあ鎌倉幕府を助けようよ」という意味があったんです。ちなみに北条家は平氏の武士です。
●鎌倉時代に武士の間に仏教が流行するのは、仏教に穢れという感覚が無いからです。
●日本に仏教を取り入れた厩戸皇子が鎌倉時代に「聖徳太子」として特別視されるのは、「穢れ」の事情があるからです。


清盛が活躍した時代は、そういう「公家」→「武士」へと移っていく時代の転換の最中にありました。

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