誓真大徳頌徳碑

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誓真大徳頌徳碑(セイシンダイトクショウトクヒ)

光明院の近くに広場があり、そこに碑があります。文字が書かれているんですが、風雪によって凹凸が曖昧になっていて、文字が読めない。もっと近づけば読めるのかもしれないけど。
まとめ
誓真の偉業の石碑。
誓真は井戸や石段を作り、宮島の土産として木工製品を教えた人物。
●寺や塔ではなく、庶民のための活動をしていたことが尊敬される理由。
●宮島の光明院の近くにある。
●見晴らしがいい。

地図

誓真

誓真は江戸時代のお坊さんで、しゃもじなどの木工品を宮島のお土産として定着させたり、井戸(誓真釣井)を掘ったり、地域の人に崇敬される立派な人です。光明院は誓真が修行した寺。修行後に時寺(=正式には神泉寺)の住職となり、活動しています。時寺は光明院の裏手にあります。
ちなみに時寺は、朝と夕の二階、時を知らせる鐘を打ったことから時寺と通称されたとされますが、この時寺はそもそも壇ノ浦で亡くなった二位尼の霊を鎮魂するための寺で、その二位尼の本名が「平時子(タイラノトキコ)」なんですね。さて偶然でしょうか? ちなみに神泉寺という名前も妙です。お寺なのに「神」。どうも「神」というのは平家の鎮魂を目的とした寺につけられたようなのです。

まぁ、それは置いておいて。

誓真大徳頌徳碑がある広場は光明院のそばなのですが、その中でも特に「見晴らしがいい」場所です。それだけでも誓真がいかに尊敬されていたか?が分かります。
●現在、誓真大徳頌徳碑がある場所は徳寿寺の僧が隠居して住む場所だったとも言われています。眺めがいいのはそういうこともある。

建立の経緯

誓真大徳頌徳碑の建立の経緯
誓真が亡くなったのが1800年。1900年に誓真を偲ぶ会が催され、そこで「碑を建てよう」ということになったのです。しかし、その後、日中戦争などがあり、実際に建立されたのは1937年。まだ戦争中でしたが、その中での建立であり、発案から37年後の悲願達成ってことです。その執念や恐るべしです。
やっぱり、それだけ誓真を尊敬していたんじゃないかと思いますね。

誓真という僧侶の価値
誓真を調べるとまず、誓真釣井(井戸)があります。宮島には飲料水が乏しかったというのですから、とても感謝されたでしょう。また石段や石畳を作りました。これらを地域の人の托鉢(=寄付)で作ったというのですね。
誓真という人は、石段や石畳は作っても「寺」は作ってないんです。時寺(神泉寺)という寺の僧侶だったのですが、寺とか仏塔とかそういう設備は作ってないんです。普通はそういう設備を作って名を残すものなんですよ。でも、誓真は集めたお金で地域のインフラ整備ばっかりしていたんです。
そういうところが尊敬され、こんな碑まで立ててもらえる理由なんでしょう。

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