旭山神社(広島市西区)

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旭山神社(広島市西区)とは

JR西広島駅・広電西広島駅から歩いて5分ほどの場所にある神社。
祭神神功皇后・応神天皇・宗像三女神(市杵島姫神・湍津姫神・田心姫神)
地図

神功皇后と鯉

神功皇后は仲哀天皇の皇后で仲哀天皇の死後に朝鮮征伐を行った日本神話最強ヒロインです。
この土地にやってきた神功皇后が、大きな鯉を献上されて、その鯉を見て「オォ!鯉!」と喜んだことから、この土地を「鯉」と呼ぶようになりました。713年「好字二字化令」という「地名を二文字で表記しなさいよ」という法令が出て、「己斐(コイ)」と表記するようになりました。

この鯉というのは後に「広島城」を「鯉城」と呼ぶ所以になり、現在の広島東洋カープが「鯉」をモチーフにする所以になります。ということは旭山神社が無ければ、カープはもっと別の名前の球団になっていたのか?も。

なぜ鯉なのか?

鯉ってのは、長生きすると長生きした分だけ大きくなるものです。つまり大きな鯉がいる地域ってのは、少なくともその鯉が生まれてこの方、「川や池が干上がったことがない」ってことです。鯉ってのは水が豊富であることの象徴だったわけです。

水耕稲作には水が必須
日本は水耕稲作をします。水耕稲作は単位面積当たりのカロリーが高く、連作障害を起こさない農法で、非常に優れているのですが、反面「大量の水」が必要です。簡単に干上がるようでは水耕稲作はできない。

日本書紀を読むと、天皇が「池を作った」という記述が見られます。ため池を作り、水路を作り、水を確保するのが大和朝廷にとって大事だったのです。そんな治水事業がまだ行われていない時代では、山から流れ出る川だけが頼りですから、水の豊富さはその地域の「豊かさ」と直結します。鯉を特別視したのはそういう時代背景があったのだと思います。
●神功皇后の時代(おそらく4世紀)までには日本書紀に「池」の記述はあるんですが、広島は畿内の外のど田舎で、大和朝廷の治水事業の対象外だったハズです。

旭山へ

由緒書きによると、神功皇后の子供の応神天皇が「八幡さま」なので、八幡宮を建てました。神功皇后は応神天皇とセットになり、八幡宮になるのはよくあるパターンです。その後、時代は下って戦国時代。厳島合戦に行く前の毛利元就がこの神社に登って戦勝祈願をした時、朝日が綺麗だったので「旭山八幡宮」に名前を変えたと言います。

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