誓真(セイシン)…宮島の僧侶で観光産業の功労者

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誓真(セイシン)とは?

まとめ
●宮島杓子(しゃもじ)や木工製品をお土産として定着させた僧侶。
●石畳・石段・誓真釣井(=井戸)を整備した僧侶。
●寺や仏塔といった仏教施設を作らず、普通の人のための活動に勤しんだことから、宮島島民の強い信頼と尊敬を得た。
●死後、100年経って「誓真大徳頌徳碑」が計画され、計画から40年近く経って、建立された。それだけ尊敬された人物。

誓真(セイシン・誓真大徳・本名)は1742年ー1800年に宮島で活躍した実在の人物で僧侶。もともとは伊予国(=現在の愛媛県)の武家の子供でした(村上頼冬の子孫)が、安芸国大工町で米穀商人をするようになりました。
誓真が僧侶になった理由
米穀商人を営んでいたある日の寒い夜。
女性がやってきて、子供の衣服を持ち込んで、米を売って欲しいと言いました。誓真はその衣服がまだ温かく、脱いだばかりだと気がついて、どうしたのかと尋ねると、
「明日、食べるものが何もなく、寝た子供からそっと服を脱がせて持って来たのです」
と答えたのを聞いて、衣服を返し、米を与え、世の無常を感じて、出家を決意しました。25歳で出家し、宮島(厳島)の光明院の了単上人の元で修行するようになりました。

誓真釣井

誓真釣井
誓真は宮島に移り住むと、托鉢で集めたお金で、井戸を掘りました。その数、10個。わずか12年の間に10個を掘ったのだから、かなり大変な事業だったはずです。現在、井戸で確認されているものは4箇所のみ。
画像は町家通り誓真釣井です。
●井戸だけでなく、「石段」「石畳」も作っています。

宮島杓子の発案者

杓子(宮島杓子・誓真杓子=しゃもじ
誓真は木工に長けていて、誓真自作の「木魚」が残っていますが、かなり精巧な作りです。もともと相当に器用な人物だったのもあるでしょうが、広島の商人だった時に大工町に住んでいたことを考えると、そこで学んだと考えた方が自然かと思います。
当時、宮島に産業がなかったことから、得意の木工技術から宮島杓子(=しゃもじ)を考案し、島民に指導しました。
この宮島杓子(=しゃもじ)が爆発的に売れたため、しゃもじのことを「宮島」と呼んでいた時代もありました。
●現在でこそ、宮島の木工製品は杓子くらいしか有名じゃないんですが、木工製品全般が非常に強いお土産品でした。
●米穀商人を営んでいたというのですが、本当は木工職人だったんじゃ無いかと思うのです。

歴史の中の誓真という存在

個人的な見解です
誓真が宮島にやってきた時、宮島には産業がなかった。というのが定説なんですが、当時の宮島には吉原、つまり風俗街があったはずです。江戸幕府は風俗の乱れを統制するために、風俗街を規制しました。広島城下にも風俗街があったのですが、このままでは幕府に怒られる。広島藩はこれをなんと宮島に移動させてしまいました。それが1625年。無くすって選択肢はなかったんですね。
●広島藩が神の島である宮島に風俗街を移動させたのは、結局のところ、武士にとって「神道」の地位が低かったからじゃないかな、と。武士は基本的に仏教ですからね。あくまで基本ですが。
●宮島は神の島ではなかった、ようです。

だから、誓真が宮島にやってきたときには、その吉原があったハズです。まぁ、風俗街があることを「産業がある」と表現するわけにはいかないでしょうが、しかし、それでも宮島はそれなりに発展していました。
●明治維新後、天皇がトップになり、神仏分離・廃仏毀釈が進められると、宮島に風俗街があるのは「けしからん!」となり、宮島から風俗街が一掃されました。
●その吉原(風俗街)の街並みが現在の「町屋」、宮島のお土産屋さんが並んでいるあの一帯です。
●宮島にあった風俗街は、江波島(現在の広島市中区江波)に移りました。
●どうも、日本人にとって風俗街は「島」にあるものらしい。

誓真が井戸を掘った意味

誓真釣井の意味
どうして誓真は井戸を掘ったのでしょうか。

井戸を掘るということを、「ボランティア」的に捉える向きは多いですが、これはちょっと違う。例えば、二つの都市の間に川があって、川が邪魔して行き来がしにくいとします。その間に橋がかかれば、人と物が行き来し、当然、両方の都市が儲かるようになる。現在では、政府が税金で橋や道路を作るので、ピンと来ないでしょうが、昔の政府はそんなことはしてくれません。そこで、地元の有力者がお金を出し合って、橋や道路を作ります。有力者ってのはようは「商人」です。しかし、誰が中心になるのか?で揉めるのです。どちらかの都市の有力者が中心になれば、一方に有利な条件で事業を進めかねない。そこで第三者が仲介者となって欲しいのですが、完全に無関係の第三者で、身元のシッカリしている人なんて、そうそういませんよね。変な人を連れてきて、お金を持ち逃げされたらたまらない。

そこで引っ張り出されるのが「僧」です。

僧侶だから信用しようじゃないかと。
僧侶ってのは「執着心を捨てている」って設定なんですよ。
実際はわかんないですよ。
ただ世間はそう思ってるってことです。
本当は、僧侶だから信用できるって訳じゃないんですが、他に適任者がいないんですよ。
●ちなみに、この公共事業の中心人物に出てくる代表格が「空海(弘法大師)」や奈良東大寺建立に関わった「行基」です。そう考えると誓真の出身が伊予国。四国は弘法大師空海の伝承の多い地域ですから、そういう「僧侶が公共事業の中心に」という感覚が元々から強かったのかもしれませんね。

誓真の公共事業は本当にボランティアっぽい
誓真が井戸を掘ったのは、吉原ができて徐々に人口が増えてきて、必要に駆られたのと、部外者である誓真が地元に溶け込むための方策というのもあったのだと思います。もちろん、島民は相当に感謝したでしょう。水がなければ人は生きていけませんからね。
ただ、それならば既に宮島には寺がたくさんあったわけで、なぜ既存の寺の僧侶たちは井戸を掘らなかったのか?ということになります。そこに誓真の存在価値と心意気が隠されているのでしょう。
どうも誓真は本当に島民からコツコツお金を集めて、島民のために井戸を掘ったようなのです。どうしてそんなことをしたのか?と言うよりは、そこまでしたから尊敬された、ってことでしょうね。
●誓真は石段・石畳も整備しています。これも、同様か近い意味があったのではないかと。
●誓真は寺や寺関係の設備を造営していません。普通はそういう寺や設備を作って、後世に名を残すものです。誓真がやったことはすべて「普通の人のため」でした。普通の人のための井戸や道です。相当に庶民の立場に立って考える人物だったと思われます。

神をも恐れぬ英雄…誓真
私はもう一つ、「誓真」が井戸を掘る大きな理由があったと思います。
宮島は神聖な土地です。だから鎌倉時代までは人が住んではいけない場所でした。現在でも宮島では、島に鍬(クワ)を入れることは禁じられ、農業が出来ません。それだけ神聖な土地なんです。現在でも農業をしないのに、江戸時代ですから「宮島に井戸を掘る」という行為は、「神の島に穴を開ける」ということであり、相当に忌み嫌われたハズです。だから誓真が井戸を掘った行為は、島民のために体を張った…神をも恐れない素晴らしく勇気のある行動に見えたでしょう。
●誓真の功績は実はこれが一番大きいのではないかなと思います。
●誓真以前にも島内には僧はいた。にも関わらず、ほとんど井戸がなかった(戦国時代の金岡水という井戸があるが、地域が違う)。誓真は宮島に井戸を掘った勇者。これは相当感謝されますよね。
●誓真は普通の人の立場に立って考える僧侶だった。そして、それは「珍しい」ことだったのです。

現在とは違う宗教と人々の繋がり方

そうして文字通り滅私奉公して、宮島に溶け込んだ誓真は、観光の振興にも取り組みました。

寺を運営するということは、島の発展が利益になります。光明院の僧侶である誓真はいわば、株式会社「寺」のサラリーマン。島の発展を促す活動はつまり、自分の利益にもなります。江戸時代では檀家制度で、島に住んでいる人はどこかの寺に所属しなくちゃいけない。檀家と寺の結びつきは現在の比じゃない。しっかりと宮島に奉仕する誓真は信頼され、人口が増えて島が豊かになるとともに誓真の寺は檀家も寄付も増え、豊かになったでしょう。ま、豊かになったところで、また島のために使ったでしょうが。
誓真の本質とその意味
普通の僧侶は寺社や門やそういう設備を作って後世に名を残すものなんですよ。でも、誓真はそうしなかった。誓真は普通の人の立場に立って、普通の人が必要なものを、精一杯作った。彼の作った井戸は水道になり、道は舗装されても、その精神は今でも語られる。現在でも誓真の功績が語られるのは、そこに強い結びつきがあったからです。

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