御霊川

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御霊川とは

御手洗川の上流、紅葉谷川のことでもある。
現在、宝蔵の裏に「御陵橋(ごりょうばし)」というのがあります。御陵橋は「御霊川」にかかる橋だからです。字が違いますが。
まとめ
●平家の滅亡後、紅葉谷の中に、平清盛と二位尼と安徳天皇の怨霊を鎮めるために作った「今社」を建てた。
●怨霊を鎮めて、逆に強く守ってくれる神にするのが御霊信仰。
●御霊信仰のために建てたのが今社
今社が立っていたから、御霊川と呼ばれた。

かつてこの御霊川の近くに「今社(イマヤシロ)」というものがありました。この今社は平頼盛が創建した「平清盛の霊を鎮めるための神社」です。現在はこの今社はありません。江戸時代の初期に三翁神社に合祀されてしまいました。

御霊信仰

御霊信仰
日本人は死んだらその人間の魂(霊)は形を失い、生前の憎しみのままに、生者に祟ると考えていました。形がないですから、生きている人にはどうしようもありません。だから、どうにかこの祟りを鎮めるために、鎮魂をしないといけなくなります。その鎮魂の方法というのが「(祟る霊を)神として祀る」というものです。

祟るような未練を持った人を祀ることで、そのエネルギーはむしろ強い力となって、奉じた人たちを守る、と思っていました。その祀られた側の代表が「菅原道真」です。
菅原道真は宇多天皇により「対藤原」のために登用されたのですが、結局、藤原氏にハメられて無実の罪を着せられて左遷。左遷先である九州で死にました。その後、京都では関係者の怪死や、落雷などが相次いで起きて、「菅原道真の祟り」と噂されるようになりました。その祟りを鎮めるために始まったのが「天満宮」「天神様」です。現在では祟りとは何の関係もない「学問の神」として祀られています。
これが御霊信仰です。
祟りだったものがシッカリと祀ることで、助けてくれる神様になるわけです。

平頼盛
平清盛は治承三年の政変(1179年)で後白河法皇を幽閉しました。その時、清盛の弟に当たる平頼盛は後白河上皇側についていたために、政変後に清盛により、地領を没収され、役職も解任されています。
1181年に平清盛が死亡。
1185年に壇ノ浦の戦いで平家が滅亡しました。

平頼盛は清盛とは距離を取っていましたから、壇ノ浦の時には死んでおらず、その後も生き残っています。それどころか、平頼盛は源頼朝からは手厚く持て成されているのです。平家物語によれば、源頼朝からそんな厚遇を受けるのは、平頼盛の母親である池禅尼(藤原宗子=平忠盛の後妻で清盛の母ではない)が、平治の乱の時に幼い源頼朝に情けをかけて、命を助けたから、と言われています。

まぁ、そんな話が本当とは思えません。

怨霊と御霊川

そんな平頼盛が今社(=御霊社)を建てたということは「兄清盛に対して後ろ暗いこと」があったからです。そして今社の創建の際に、佐伯景弘(厳島神社の神官)も関わっているところを見ると、この二人は治承三年の政変(1179年)から壇ノ浦の戦い(1185年)の間に、「平清盛・平家」に対して重大な裏切り行為があったのだと思われます。そういう後ろ暗いことをやった、やらなきゃ、そんな怨霊を鎮める神社を作るわけがない。
鎌倉時代に入り、日本のあちこちで地震が起きました。鴨長明の方丈記には「馬が歩けない」ほどに地震があったと書いてあります。そしてこれを「清盛の祟り」と世間は噂しました。となると、後ろ暗い人が、清盛を祀る神社を建てざるをえない。そうしないと祟りが続くからです。そうして建てられたのが「今社」です。

今社は紅葉谷の奥にあり、普段は禁足地でした。
紅葉谷の奥には清盛の怨霊が渦巻いていて、人が近づいてはいけない場所だったのでしょう。
今社は御霊社とも呼ばれていました。
それで御霊川と呼ばれるようになったようです。
●今社の禁足地が原生林を残したのではないか?
厳島神社を創建したのは「平清盛」という伝承も、手柄を譲ることで怨霊を鎮めようとした御霊信仰の結果ではないか?

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