平清盛の生涯の年表

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清盛の年表まとめ

以下に平清盛の人生をまとめています。細かい解説は別途ページを設けますのでそちらで。

平清盛の生涯の年表

1118年元永元年平清盛が生まれる。
1129年大治4年清盛12歳で従五位下・左兵衛佐に。異例の出世であるとされる。
1137年保延3年清盛が肥後守に任じられる。
1141年永治元年崇徳天皇が近衛天皇に譲位。
1147年久安3年清盛、正室の時子との間に宗盛が生まれる。6月に祇園乱闘事件が起きる。延暦寺から強訴され、清盛の配流(=左遷)を求められるが鳥羽上皇が保護し罰金刑で済む。
1149年久安5年清盛、安芸守に任じられる。
1153年仁平3年平家の棟梁となる。
1155年久寿2年近衛天皇が崩御。後白河天皇が即位。
1156年保元元年鳥羽法皇が崩御。保元の乱(後白河派VS崇徳上皇派)。清盛は後白河側。敗北した崇徳上皇は讃岐に。摂関家の凋落と信西の台頭。信西は清盛を厚遇する。
1158年保元3年後白河天皇が二条天皇(後白河天皇の子)に譲位。後白河上皇となる。二条天皇は後白河上皇とは親子だが、養育をされておらず、関係は冷めていた。よって二条天皇と後白河上皇はこの後、対立関係になる。
1159年平治元年平治の乱(反信西で始まり、信西が殺されると、後白河派VS二条派の争いとなるが、どちらにも距離を取っていた清盛が武力でボコボコにする。結果、後白河派も二条派も有力氏族を失い、こう着状態となる。特に後白河派はほぼ壊滅)
1160年永暦元年清盛が公卿と成る。
1161年応保元年後白河上皇と平滋子(建春門院=清盛の妻の妹)の間に憲仁親王(=後の高倉天皇)が生まれる。後白河上皇と二条天皇の再度の対立の結果、後白河上皇の院政が停止。
1164年長寛2年院政が停止し、ふてくされていた後白河上皇のために蓮華王院を作る。その蓮華王院に荘園の寄進が集まり、徐々に後白河上皇が盛り返す。崇徳上皇が讃岐で崩御。
1165年長寛3年二条天皇が崩御。六条天皇が即位。
1166年永万2年近衛基実が急死して後白河院政が復活。
1167年仁安2年清盛が太政大臣・従一位になる。三ヶ月で太政大臣を辞任。
1168年仁安3年清盛は大病を患う。死にはしなかったが、出家した。高倉天皇の即位。
1177年治承元年鹿ケ谷の陰謀(対平家征伐未遂事件)
1179年治承3年後白河法皇が清盛近親者の土地を取り上げ、平家を締め出す人事を行ったことから、治承三年の政変(平家によるクーデター)。後白河法皇を鳥羽殿に幽閉。徐々に反平家の機運が高まる。
1180年治承4年高倉天皇が安徳天皇に譲位。以仁王による反乱が全国に広がる。清盛が作った「福原京」に遷都する(天皇を福原に住まわせるということ)。しかし11月にはまた平安京に遷都。反乱は平家によって鎮圧されていき、とりあえずは沈静化した。
1181年治承5年高倉天皇が崩御。反乱の動きが徐々に盛り返す中で清盛が死亡。享年64歳。
1185年治承・寿永の乱(壇ノ浦の戦い)。平家滅亡。

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