要害山

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TOP >> 要害山宮島 厳島合戦 戦国時代 休憩場所 おすすめ度☆☆☆★★
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要害山

フェリー乗り場からすぐ近くに「要害山への道」があります。結構急ですが、ここを登ると非常に眺めが良いです。頂上には休憩所と今伊勢神社があります。歴史的に色々と意味のある場所です。

アクセス

フェリー乗り場から厳島神社方面に行く途中に要害山に登る道があります。また、宮島表参道商店街に端っこの道を存光寺へと向かうと要害山に登る急な階段があります。どちらからでも行けますが、フェリー乗り場近くの方が分かりやすい。

要害山と厳島合戦と陰徳太平記

要害山と宮尾城
毛利元就(というか毛利軍)が陶晴賢と合戦をする際に、要害山に「城を建てた」とされていますが、石垣がしっかりしているとこを見ると、この時(厳島合戦)に急に築城したのではなく、それ以前から城かそれに近いものがあったのだろうと思われます。
●そもそもは航行する船を監視する台だったのではないかとも。

対する陶晴賢塔の岡に陣を張りました。
塔の岡ならば宮尾城(=要害山の城のこと)がよく見えます。ただし、宮尾城からも塔の岡は丸見えですから、まぁ、お互い様なんですが。

陰徳太平記
そもそも厳島合戦に描かれている戦争が「陰徳太平記」という書物のものなんですね。この陰徳太平記が記述されたのが江戸時代の1600年代の半ば。書いたのは香川正矩。ただし完成はしておらず途中で亡くなっています。それを息子である香川景継が引き継ぎ、実際の出版は1717年。出版は岩国領(吉川の領地)の許可を得て出版されていて、しかも藩に費用を出してもらっているのです。岩国藩は吉川で、当然毛利の関係者です。つまり、陰徳太平記ってのは、毛利の検閲と毛利の金で出版された本ですから、この厳島合戦の記述は毛利に都合の良い記述で満載、だと考えるべきです。

そう考えると要害山に宮尾城を短い期間で築城したというのはまぁ、嘘。創作です。宮尾城はもともとあったか、築城したにしても土台があったか、ボロくなってたのを修繕したか、ということです。脚色と言うべきでしょうか。
●豊臣秀吉にも「一夜城」の伝説がありますが、あれも江戸時代に書かれたフィクションです。ただ秀吉の一夜城は「秀吉は築城の天才」という前提があってこその創作なんですよね。
●厳島合戦後に、陶の首実験(=首を晒して部下の論功行賞を行うこと)をしたという逸話があるのですが、これも眉唾とも。

実は毛利は合戦していない?

ところで要害山の築城が嘘、というだけでなく、そもそも厳島合戦自体が「毛利は参加していない」という説もあります。確かにあり得るんですよ。毛利は上司だった大内を乗っ取った陶を駆逐した正義の英雄。この道徳があってこその毛利。この厳島合戦は「毛利が一国の主」になるキッカケなんですよ。ここをしっかりと描いて毛利の手柄にしておかないと毛利の存在理由が揺らいじゃうんでね。
●個人的には陰徳太平記は、毛利を主人公に歴史土台のファンタジー小説に近いと思います。

厳島合戦では毛利VS陶の勝負を決したのが村上水軍の援軍でした。そこから、実際の合戦は村上水軍VS陶だったんじゃねぇの?とも言われます。しかし、陶はなぜ不利な厳島で戦ったのか? 直情的だった陶は部下の進言(毛利は厳島におびき出そうとしている)を聞かずに厳島へ進軍したとも言われますが、まぁ、どこまで本当なのか。

陶晴賢の墓

陶晴賢は厳島合戦で自害しています。この陶の墓が廿日市の洞雲寺にあるのですが、この墓についての記述は「芸藩通志(出版は1825年)」に初出で、それ以前の洞雲寺がある佐方村の記録にはないんですね。どうも陰徳太平記が出版されてから、洞雲寺に観光目的で「陶の墓を作った」んじゃないのかと私は思います。つまりそのくらい脚色がある、っぽいよってことです。

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