勅願堂…宮島の大聖院の波切不動明王が祀られたお堂

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勅願堂

名前勅願堂(チョクガンドウ)
場所大聖院敷地内
関係波切不動明王(現在の大聖院の本尊)、千体不動三十六童子
鳥羽天皇の勅願道場として建設されたと言われるお堂。豊臣秀吉が朝鮮出兵…文禄の役(1592~1596)の際に海上交通の安全を祈るための波切不動明王が勅願堂には祀られています。他に千体不動(千体の不動明王)、三十六童子像(不動明王の眷属の童子)が大量に安置されています。

大聖院に入って右手にある観音堂(大聖院)の方が大きく、十一面観音菩薩像が安置されていることから、観音堂の方がメインに見えるんですが、勅願堂の方が本来はメインです。

歴史

鳥羽天皇(後白河天皇の父親)の勅願道場として作ったのが勅願堂とされます。これが事実とすると本堂ができたのは12世紀となります。勅願というのは天皇の願い(国家鎮護・皇室繁栄)のこと。これを願うための儀式をするのが勅願道場。江戸時代後期の芸州厳島図会のイラストには「本堂」とあり、江戸時代にあったのは間違いないです。
鳥羽天皇の勅願道場?
なぜ鳥羽天皇(鳥羽上皇・鳥羽法皇)が大聖院(当時は水精寺)と縁があるのかというと、これが伝承にあるだけで文献・資料で証明はされていないです。

12世紀(平安時代)に鳥羽天皇は覚鑁という真言宗の僧侶に病気を治療してもらい、覚鑁をとても優遇するようになります。しかし、大聖院が真言宗と関係を深めるのは室町時代以降。弥山に覚鑁を特別視する新義真言宗の一派がやって来て修行し始めます。それから大聖院は真言宗化していきます。この勅願堂はその頃に遡って覚鑁つながりで「鳥羽天皇の勅願道場」という設定が生まれたのではないかと思います。
●本堂(勅願堂)が実際にいつからあるのか分からない。
●大聖院はそもそもは天台宗の寺。それが清盛の時代から真言宗が入り込んで来ます。しかし、完全に真言宗化するのが室町時代以降。
●大聖院がかつて天台宗だった証拠の一つが三翁神社三翁神社は本来は「山王社」で比叡山系(=天台宗系)の施設だった。
厳島神社で行われていた仏事は天台宗系のもの。

戦国時代に豊臣秀吉が
戦国時代になると大聖院では連歌会が開かれるようになります。連歌は高い知識とセンスを求められる芸事で、10人で行い、連歌を作ることで連帯感を感じ、集団の絆を深めることができます。なので、戦国武将も積極的に連歌をしていました。大聖院は文化の中心地であり、政治的な意味がありました。
毛利が豊臣秀吉の部下になると、秀吉が文化・政治・貿易の要衝である宮島にやって来ます。秀吉が朝鮮出兵をするときに船に海上安全の祈願のための波切不動明王の像を乗せます。その不動明王の像が勅願堂に安置されています。
●つまり勅願堂に不動明王が祀られるようになったのは当然ながら戦国時代以降。

明治20年
明治20年(1887年)に本坊諸堂が焼けて、再建されているので、現在の勅願堂もそれ以後に再建されたもの。

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