三家…戦国時代から江戸時代まで続いた厳島神社の体制

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三家

まとめ
●三家とは戦国時代の途中から江戸時代まで続いた厳島神社の運営体制のこと。
●具体的には、大聖院座主社家奉行棚守房顕とその子孫)・大願寺のこと。
大聖院座主厳島神社の仏教儀式を、社家奉行は神事を、大願寺厳島神社の修理を担当していた。
●しかし、実質的な権力者は社家奉行。江戸時代には厳島神社には神主は不在。社家奉行棚守の子孫が現在の野坂宮司。
●明治維新時の神仏分離で大聖院大願寺は厳島神社から引き離され、三家体制は崩壊した。

三家体制以前

戦国時代の途中まで厳島神社は神主をトップとした内侍六家衆・大聖院座主社家三方が運営していました。ところが、神主の藤原興親が京都で死んだことで、その親戚である友田興藤と小方加賀守の争いが発生。安芸武田氏と繋がった友田が神主に就任すると、長らく庇護にあった大内氏に謀反を起こします。すぐに謀反は鎮圧され、友田は桜尾城で死亡します。
この一件で大内は神主をトップとした体制を嫌うようになり、神主の無力化を図ります。また、厳島神社の所領を取り上げてしまいます。その時、大内義隆に気に入られていた棚守房顕が社家奉行となり、厳島神社の財務を握り(つまり、神官たちの給料を握るということ)、実質的な経営者となっていきます。そうして社家三方の体制から、「三家体制」へと移行していきます。

三家体制下の厳島神社

実質的権力者の社家奉行
社家奉行は本来は神官たちの争いごとを裁くという意味もありますが、戦国時代において大名の大事な役割が「争いごとの裁定」だったこともあって、実質的なトップ。それだけでなく、社家奉行である棚守房顕とその子孫は神官たちの給料の支払いの責任者でもありました。ちなみに給料の原資は大内や毛利などです(江戸時代以降は安芸藩)。つまり社家奉行は大名の後押しを受けて「権力者」になった訳です。その根本にあったのが「友田興藤の謀反」にあったのは間違いないです。
●戦国時代は杵築大社(=現在の出雲大社)の神主の千家・北島も大名化していて、友田の謀反はぶっとんだものではないです。

戦国時代から厳島神社は神主不在
友田の謀反後に大内氏は大内の部下の杉氏を佐伯景教と改名させて神主にするのですが、宮島には居らず権力は握っていません。その佐伯景教も厳島合戦の際に「陶・大内方」の人物として毛利に殺害されると、そこから何と明治まで神主不在の状況が続きます。これはかなり異常なことです。
●棚守も毛利に神主を置いて欲しいと求めているが、毛利は応じなかった。
●厳島神社の体制は江戸時代も継続される。もともと、この体制を作ったのは「大内義隆」。しかし、宮島や広島では大内の評価が低い。

大聖院と三家

大聖院は古くから厳島神社の別当寺とされます。別当というのは「別に当たる」という意味で、厳島神社を運営管理する寺という意味です。厳島神社の平安時代の文献を見ても、完全に神仏習合していて、厳島神社で千僧供養を行うなど、仏教の儀式も非常に多く行われていました。
というか日本は仏教が公伝してから1000年以上の間、神仏は習合しっぱなしで、明治の神仏分離が歴史的に「特異」なだけです。厳島神社の運営に寺が関わるのは、非常に自然なことです。
いや、大聖院が儀式を行うということは、儀式が神社のアイデンティティである以上、寺は切り離せない。神仏分離が如何に歴史的に特殊か?ってことです。
変わらない地位の意味
社家三方が運営に関わっていたときには、三方の一つに「内侍(厳島神社の巫女)」が挙げられていました。内侍は三方から脱落して、社家奉行の下の立場になります。また、神主は実質廃止。そういう状況下でも大聖院だけは立場を変えていない。ってことは、大聖院だけは「切り離せない」存在だったというのが内外(神社関係者と大名)の一致した感覚だったってことです。

大願寺と三家

大願寺は新参者
大願寺は室町時代に宮島に関わるようになった寺で、割と新参者です。宮島でイベントがよくありますが、歴史があってイベント(祭)の数が多いのは、圧倒的に大聖院です。
大願寺が厳島神社を修繕する経緯
戦国時代には政所(経理担当)・公文所(文書管理)が神主の直属の集団だったのですが、彼らは武士化し友田興藤と謀反を起こします。すると、神主と共に無力化されます。実は政所・公文所が厳島神社の修繕もやるようになっていて、彼らが無力化されることで修繕事業が宙に浮くことになります。それを新たに担当したのが大願寺です。

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