社家三方…戦国時代まで厳島神社の運営の中心だった三者

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社家三方(内侍・六家衆・座主)

まとめ
●社家三方とは内侍六家衆座主
内侍厳島神社の巫女。六家衆厳島神社の神官・楽人・舞人の代表者。座主大聖院のトップ。
●社家三方が戦国時代の途中まで厳島神社の儀式の中心だった。儀式の中心ということは厳島神社の権力者だった。
●戦国時代の途中で、三家大聖院座主社家奉行大願寺)が厳島神社の運営の中心となっていく。

社家三方とは

社家三方とは内侍六家衆・座主のこと。
内侍は厳島神社の巫女のこと。内侍という呼び方は厳島神社独特なものです。
細かいことは内侍を参考にしてください。

六家衆とは厳島神社に儀式に関わる神官の代表者。
細かいことは六家衆を参考にしてください。

座主とは大聖院のトップのこと。大聖院は厳島神社の別当寺とされ、厳島神社を管理運営してきた。
細かいことは座主を参考にしてください。

社家三方の衰退と棚守房顕

戦国時代の途中まで厳島神社の運営は、トップに神主。神主の下に社家三方(内侍・六家衆・座主)がいました。彼が厳島神社の儀式を実質行います。神社にとって儀式とはアイデンティティです。儀式をしない神社なんてただの木造建築物です。社家三方は神社を支えている重要な人たち、というか彼らが厳島神社そのものと言ってもいいくらいです。
神主と公文・政所
神主には直属の部下がいました。それが公文所・政所です。公文所は文書を管理する所です。朝廷にしても、その他の大名にしても、彼らから厳島神社にお願いをする代わりに、神社が領地をもらったり、何かをもらったりすると文書が残ります。その文書がその土地や物を所有する由来であり、所有の根拠となります。公文所は重要な部署であり、「政治的」な部署でした。

政所は、今でいうところの「経理」です。お金を握って、お金を何に使うのかを決めることができます。お金が無ければ、儀式も行えません。お金を握っているってことは、厳島神社を握っていると言っていいでしょう。
●政所は厳島神社の修繕も行っていました。後の大願寺の役目です。

この公文所・政所が神主の直属の部下で、「武士化」していきます。すると厳島神社の神主と部下は「戦国武将」のようになります。もともと、戦国大名のような感じだったのですが、群雄割拠する中で周防の大内氏の部下となって、まぁまぁ上手くやっていっていました。

藤原興親の死
厳島神社の神主だった藤原興親は、大内義興と共に京都に上洛します。そこで藤原興親が死亡。ここで、神主の跡目争いが勃発します。友田興藤と小方加賀守が争い、安芸武田氏の後押しを受けた友田が厳島神社神主となり、大内に謀反を起こします。これまで大内の下でやってきていたのに。

この友田興藤の謀反は友田の自刃によって鎮圧されるのですが、問題は戦後処理。大内は厳島神社に神主をおくことが「危険」と考えるようになります。神主を無力化したい。では、神主・公文所・政所の仕事を誰にやらせるのか?ということになります。厳島神社の儀式を滞りなく続け、文書管理・経理を行えて、何より妙な野望を抱かない人物…そこで白羽の矢がたったのが「棚守房顕」です。この優秀な「棚守房顕」にこれらの業務を委ねるようになります。

そうして戦国時代の途中から江戸時代まで、三家(大聖院座主・社家奉行大願寺)の体制が始まります。というか実質、社家奉行(=棚守房顕とその子孫)の一強なんですけどね。

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