尊海渡海日記…湘瀟八景の屏風の裏の朝鮮紀行文

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尊海渡海日記

まとめ
●宮島の大願寺の僧侶の尊海が一切経を求めて朝鮮半島に渡った際の紀行文。
●湘瀟八景という山水画の屏風の裏に書いてあるもの。
●朝鮮の紀行文としては、おそらく最古。
●現在は東京国立博物館に保管されていて大願寺にはない。
●朝鮮半島には経はなかった。高麗から李氏朝鮮になるときに仏教を排斥したので。

尊海渡海日記とは?

尊海渡海日記とは大願寺の僧侶の尊海が当時李氏朝鮮の朝鮮半島に渡り、一切経を求めた経緯を書いた文。文と言っても本ではなく、湘瀟八景という山水画の屏風の裏に書いたもの。屏風は朝鮮半島から持ち帰ってもので、これも貴重な資料(というか歴史的美術品)となっています。
現在は大願寺ではなく東京国立博物館で保管されています。

ゆるゆると現代語に

大願寺には湯殿というのが有りました。湯殿ってのはお風呂のこと。お風呂の修行する人の道本って人が言うには、
厳島神社に一切経があると言っても、あんまりに古くてボロボロです。世も末だから、多くの人がお経を求めているので、ちゃんとしたのを収めたいものですね」
とのこと。それで印漢という僧侶がいまして、どうにか一切経を手に入れたいと思いまして、天文6年(1537年)8月2日に周防の大名の大内義隆に渡航証明書の勘合符に判を貰って、高麗国へ届ける進物を整えて博多に行きました。この時、天文7年(1538年)5月12日です。
大願寺内に生まれが芸州平良(=廿日市市平良)の人物の尊海というのがおりまして、彼を従者として一緒に博多に行かせました。7月1日に船に乗って8日に壱岐嶋(=九州北部の壱岐島)に着岸。9日に出発。10日の未明に対馬の府中に到着。揉め事がありまして、船頭が決まらなかったのですが、9月2日に船頭が決まりました。一人は芸州(=安芸国=広島)の人の宗孫三郎長幸、もう一人は防州(=山口)の人の渡邊右衛門尉の二人です。そうこうしている間に天文8年(1539年)の春になりました。
この間のこと、印漢が言うには
「ある夜、夢を見た。高麗に渡っても一切経はない」と。
また、対馬の府中の八幡に詣でてクジを引くと、「経はないだろう」とクジにあったので、それで印漢は二人の船頭に対して訴訟を起こして、渡航の計画を取りやめてしまった。
天文8年(1539年)3月5日に対馬の府中に家事がありました。千間あまり焼けてしまいました。それもあって二十日間ほど印漢と船頭は連絡が取れませんでした。出航の前に印漢に向かって「一切経が手に入るように髪にお願いしているというのに、こんなことになっていることが腹立たしくて、二人の船に災難があって、お経は手に入らないという兆しだ」と言いました。

これでこの計画を中断すれば、外聞が悪い。尊海は高麗国に渡って、お経が本当にないのかどうかを知るために、対馬の府中から出航して
5月9日高麗の釜山浦に着岸。
5月12日釜山浦の地頭、東萊の地頭と大庁(広間のこと)で対面して酒を飲む。
6月8日から都から使者が来る。
6月11日より役只あり(=饗応つまり宴会があった)
6月12日接待あり(接待は日本使節に対する宴会)。
6月14日接待。
6月15日河舟の衆7人が立つ。荷物は合わせて馬93頭が載せる分。
6月18日陸衆8人が立つ。地頭と出会い、酒が用意されてあって迎えてもらった。梁山(慶尚南道梁山市)に到着。
6月19日彦陽に到着。
6月20日慶州(慶尚北道慶州市)。大きな鐘がある。新羅奉徳寺の鐘。
6月21日接待。
6月22日永川(慶尚北道永川市)に到着。
6月23日新寧(慶尚北道永川市新寧)に到着。
6月24日義興(慶尚北道軍威郡義興)に到着。
6月25日義城(慶尚北道義城郡義城邑)に到着。
6月26日安東(慶尚北道安東市)に到着。
6月27日接待。
6月28日營川(慶尚北道栄州市)に到着。
6月29日豊基(慶尚北道栄州市)に到着。
閏6月1日丹陽(忠清北道丹陽郡丹陽邑)に到着。これより荷物の人員が帰宅。
閏6月2日忠州(忠清北道忠州市)に到着。
閏6月3日接待。ここから河舟で移動。
閏6月4日可興(忠清北道忠州市可金可興里)に到着。
閏6月5日興蒼(=誤字で本来は興蒼で江原道原州市富論面興湖里)に到着。
閏6月6日驪州(京畿道驪州郡驪州邑)に到着、接待。
閏6月7日大難(=誤字で本来は大灘で京畿道楊平郡楊西面大心里?)
閏6月8日、鳳安(誤字で本来は奉安で京畿道南楊州市鳥安面陵内里)を通り、豆毛浦(ソウルの地名)に到着。この日、忠武路にある倭館の東平館(李氏朝鮮時代にあった日本人居留地の)に入る。
閏6月13日進上し、粛拝(礼拝の方法の一つ、挨拶)した。
閏6月16日礼曹(=李氏朝鮮の行政機関)の接待。この日に大内氏の書簡を渡して一切経を求めたところ、礼曹が言うには「この国は仏を敬わず、寺塔を焼いたので蔵経はありません」とのこと。国王から3度、礼曹から3度、支給品をもらい、晝奉盃(=昼に振る舞う酒、昼の宴会)があった。
天下粛拝は8月13日。内裏の景福宮の慶会楼は言葉にできないものだった。引き出物は15人にあった。
8月15日御幸(=王の移動のこと)があった。その名前を「アセリ(=秋の祭りの名前だと思われる)」という。瑠璃の内裏…景福宮勤政殿でした。
8月23日礼曹に粛拝した。この日、蔵経のお願いを正官副官に頼んだのですが、また叶わなかった。
8月28日暇乞い(=別れの挨拶)の粛拝をしました。その名をアテキ(=別れの挨拶の名前だと思われる)と言います。
9月4日進物のお礼の品がありました。又、求請(品物を指定して受け取ること)は申すがままに叶いました。
9月13日都を出て河舟で下りました。礼曹から引き出物がありました。

天文8年9月10日 尊海
厳島大願寺の常住物なり

解説

厳島神社は神社なんですが、神社と寺が分離するのは明治維新以降で、それ以前は神社と寺は一心同体の運命共同体でした。厳島神社でも仏事が行われていて、一切経を読む大法会は厳島神社にとって大事な仏事でした。その一切経がボロボロだというのですね。これはやばい。というわけで印漢というお坊さんが朝鮮半島に取りに行くことになります。

当時、周防大名の大内は朝鮮・明との交易を長く行い稼いでいましたから、朝鮮半島に行きたいならどうぞ、ってなものです。
で、大願寺の尊海も追いかけた。どうにか追いついて、さぁ朝鮮に渡るぞって時に、「朝鮮にお経なんてないよ」という夢は見るわ、八幡さまのクジで「朝鮮に経はない」と出るわで、渡海をやめてしまった。
朝鮮には寺はほとんどない
高麗から李氏朝鮮になるときに、李氏朝鮮は儒教を国の根本として、それまで国の中心にあった仏教を迫害しました。仏教を迫害した結果、朝鮮半島から寺はほとんどなくなりました。一部は残るんですがね。迫害というか、ほぼ掃討と言っていいでしょう。それで山の中の庶民に影響のなさそうな寺だけが残りました。そんな仏教がしぼんだ国に一切経があるはずもない。
そういう情報を船頭と印漢もつかんだのでしょうね。博多の人たちは知っていた。そのくらいの情報は入ってくるし、仏像などが朝鮮から流出していたとかで現地では「常識」だったんじゃないでしょうか。目的のものがないのだからそりゃ行きませんよ。それで中止した。
●大内は朝鮮に一切経なんてないことは把握していたと思いますね。
●この高麗→李氏朝鮮に変わるときに仏像が日本に流出したものが対馬に渡り、のちに韓国人窃盗団に盗まれて日韓仏像返還問題(俗にいう対馬仏像盗難事件)になります。

尊海の目的は「貿易」じゃないか?
ところが尊海は本当にお経があるのかないのか確かめに朝鮮に行った。最終的に現在のソウル市まで行って王に会っているんだから、相当すごい旅行だったはずです。で、目的だったものは手に入らなかったけど、お土産は色々と持ち帰った様子。おそらく尊海の目的はそこだったんでしょうね。つまり「貿易」です。
●かなり饗応・接待してもらっていることを考えるとね。

倭人の居留地があった
1539年の紀行文ですから、この時点でソウルにも日本人居留地があったということです。まぁ、あっても不思議じゃないというか、あってしかるべきでしょうね。大内はずっと貿易をしているのですから。

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