棚守房顕覚書155 慈光院快惟のこと

MENU
TOP >> 棚守房顕覚書(資料) >> 棚守房顕覚書155 慈光院快惟のこと棚守房顕覚書(資料) 資料
スポンサードリンク

棚守房顕覚書155 慈光院快惟のこと

一、山口の慈光院快惟事、在島に付き、岩国喜楽寺の寺家を取り上せ、慈光院の法事等を執行し候。
彼の屋敷の事、先輩より無禄にて、供僧坊にてもこれ無く候へども、申し談ぜられ、彼の寺家を立てられ候。然る所、老少不定なることに候へば、吉田に於て死去の條、彼の寺を立てられ候砌、過分の借銭ども候や、近辺の事に候へば、彼の寺に百貫文を返弁申し付け候て留め置き候。無禄の所にて続け難く候間、何とぞして少々所領ども申し受けて、供僧坊に続け度く候、房顕に隆景より隠居の御合力として、年の廿俵宛下され候條、これらを慈光院へ付け度き心中に候。

現代語

山口の慈光院快惟という僧侶の事です。宮島にいた時のこと、岩国喜楽寺の関係者の僧侶を取り上げて、慈光院の法事を執行しました。
慈光院の屋敷の事です。これまで無禄(=収入がない)で、供僧坊も無禄でしたが、(毛利に)申し上げて、この寺家を建てました。それで、老少不定(=普通は老人が先に死に、幼いものが後に死ぬが、そうとは限らない事)となって慈光院快惟が吉田(毛利の居城がある地域)で死んでしまってから、この寺を建てられまして(完成して)、不足の銭や近辺の事…この寺に百貫文の弁済を申し付けて置きました。しかし無禄ですから、寺を維持することも難しくなりまして、どうにか少々の所領を貰い受けて、供僧坊を続けました。棚守房顕へ小早川隆景から隠居の援助として、年20俵を下されたものを慈光院に付けたい心となりました。

解説

慈光院という寺の僧侶が宮島にいて、そこでは人手が足りないので岩国の寺の僧侶を借りて法事をしていたと。所領がなかったことから寺の経営が難しかったということですが、この慈光院という寺は小早川隆景の妻の「問田大方」の法名の「慈光院月渓永智」にも見られるので、小早川の関係の寺だったらしい。最後の小早川隆景の20俵がどうのこうのというのは、そういうことだと思います。毛利に恩義のある棚守としては小早川の関係の寺なんだから、分けてあげても四方なぁ!ってことです。
前のページ…「棚守房顕覚書154 座主良弁の死
次のページ…「棚守房顕覚書156 管弦当役及び会所と会所坊主

棚守房顕覚書(資料)の一覧

スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集