棚守房顕覚書154 座主良弁の死

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棚守房顕覚書154 座主良弁の死

一、座主良弁の事。
寅年より高野に到り、山に住み候、卯歳の七月廿一日、摂津国、室の沖にて自海し候、越後公、大夫公、満願寺の新発意二人、以上、六七人海に流れ候。
その日は浪風高く、汐起り、平舞堂など汐に震理、夕べに高汐みつること、房顕の代に五度あり、末世の故か、如何候やらん。

現代語訳

座主の良弁の事です。
天正6年(1578年)に高野山にいたり、山に住み、天正7年(1579年)の7月21日に摂津国(大阪府北部と兵庫県南東部)の室津(兵庫県たつの市)で自海(?)しました。越後公、大夫公、満願寺の新発意(=新しい僧侶)二人、以上六、七人が海に流されました。

その日は浪風高く、満潮で、平舞堂など汐に浸り、夕方になって高汐になりました。房顕の代にそういうことが5度ありました。これは末世であるがゆえか。

解説

高野山で修行していた良弁というお坊さんが、天正7年(1579年)に室津で「自海」したというのですが、自海とはなんだろうか?と思うのですが、ともかく、越後公、大夫公、満願寺の新発意(=新しい僧侶)二人とともに死んでしまったようです。
その後の文章から考えると「港を出発」することで「嵐」「暴風雨」「台風」に遭ったってことなんでしょうね。

厳島神社でも、高潮で潮に使ってしまったとあり、房顕によると自分の時に5度あったというわけです。その原因を「末世」であるとしています。厳島神社の周辺を激変させたという1541年(天文10年)の大災害も棚守の時代ですからね。
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