棚守房顕覚書152 僧坊処置のこと(2)

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棚守房顕覚書152 僧坊処置のこと(2)

さる程に、当家思し召す儘の條、山里の社領等のこと仰せらるるの條、修繕坊と東蔵坊良秀両人のことは、高野より呼び下し帰島の事に候、良秀事は瑞光寺順迄宍戸殿へ申し理り、今に知行の事に候。

修行坊長印事は、方々かけりまはらる故に、十二三年にて下向し、帰島にて候。座主留守代の事、石堂の西福寺は、当島に四五年在島の條、房顕相抱え申し、上の祈念し候て、真読の大般若ども誂資申すの條、先の留守代の事、十一月一五日より座主代等に候。

現代語訳

そうして当家…毛利家の思い通りになりまして、山里の社領(=神社の領地)のことをおっしゃられました。修繕坊・東蔵坊良秀の二人のことは、高野山から呼び戻して帰島…宮島に帰らせました。東蔵坊良秀は瑞光寺の宍戸に申し付けて理解を得て、勤めさせています。

修行坊長印はあちこちに行っていて、12、3年後に下向して、宮島に帰りました。

座主(=寺のトップ)の留守を預かった「留守代」のことです。留守代は石堂の西福寺は宮島に4、5年ほどいました。棚守房顕が抱えて、上(=毛利家)の祈念をしまして、般若経を全て省略せずに読経して、留守代が十一月十五日より座主代となりました。

解説

厳島合戦の後、宮島にいた寺の重要人物が宮島から脱出しました。どうも毛利に殺されると思ったからではないかなと。当時の坊主は単なる坊主ではなく、政治的な存在でしたからね。
それで、修繕坊・東蔵坊は宮島に帰った。修行坊も宮島に帰った。

西福寺には留守を預かっていた代理の者がそのまま座主代となったというお話。棚守は敵対したものであっても、最終的にはかばい、守ったことがこれまでにも書かれています。棚守が守ったという記述はないんですが、何か、働きかけがあったのかもしれません。
●それが棚守がこの宮島の権力者である根拠とでも言いたいのではないか。-
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