棚守房顕覚書151 僧坊処置のこと(1)

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棚守房顕覚書151 僧坊処置のこと(1)

一、寅年、安芸と周防との引合に付いて、同卯年九月、陶殿のくずれし時より、修善坊、修行坊、瑞光寺は他出あり。然れば供僧四五人他国の間、吉田より我等に仰せらるる事には、供僧坊の空きたる所多々ある間の條、何となりとも計る可きの由に候條、修行坊をば、長印のをい良重に申し付け候。東蔵坊をば源音に申し付け、一乗坊事を村上当類の事の間、十月興栄は警固に帰るに、在所への事に候へば、辰歳二月に帰島の時、来島道泰より棚守への書状に、彼の伊勢の新発意の事は先の座主出家の弟師の事の間、座主にもなるべき事に候へども、何となりとも然る可きの様を上意に申し理る可きの由の條。此の儀を元就公へ御目に掛くる処、尤も来島殿より仰せらるる儀の條、座主の儀ははや申し付けたる所なれば、その内然る可き供僧を申し付く可き由に候條。一乗坊は空き所の事に候へば、申し付け候。

現代語訳

寅年(天文23年=1554年=厳島合戦の前の年)に安芸国と周防国の引合がありまして、卯年(弘治元年=1555年=厳島合戦の年)9月に陶隆房(=陶晴賢)が死んだ時から、修善坊・修行坊・瑞光寺の僧はよそへと出て行ってしまいました。すると、そこの供僧(神社に関係する僧侶)の4、5人が他国に行っている間に、吉田(=毛利元就)から、我らに仰られるには「供僧坊(=僧侶が生活する施設)の空いた所が沢山のある。好きなようにしなさい」
とのことなので、修行坊を長印(人物名)の甥の良重(人物名)に申し付け、東蔵坊を源音(人物名)に申し付け、一乗坊は…村上水軍の仲間の用事の間の10月に興栄(人物名)は警固(=自警団の詰所)に帰ってそこに在所していましたが、翌年の弘治2年(1556年)2月に帰島の時、来島道泰(=村上水軍の将)より棚守への書状に、「例の伊勢の新発意(=新しい僧侶)の件は、前の座主(=寺院の一番偉い人)の弟師(=弟子??単に弟)の事でもあるので、座主になるべきなのですが、何なりとも然る可き様に上意(=毛利の意志)に沿う様に思います」
このことを毛利元就公にお目にかけるならば、来島殿に座主のことは申しつけた所でありますが、そのうち然る可き供僧を申付ける可きことです。一乗坊は空き家になっているので、申しつけたのです。

解説

厳島合戦があり、陶隆房が死亡すると、宮島にあったお寺から僧侶が出ていきました。戦争を嫌って逃げたのかもしれませんが、彼らは陶に味方していて、毛利に殺されるのが怖くて逃げた、のかもしれません。それで、空いた寺をどうにかしなさいと毛利から御達しがあり、それぞれを「申し付け」した。
そのうちの「一乗坊」というお寺…というかお坊さんが生活するスペースは村上水軍の関係者に任された。村上水軍は厳島合戦に参加したとされていて、中でも来島村上氏は毛利とは縁戚関係にあります。

一乗坊は来島氏が言うには、前の座主の弟がやればいいけど、毛利に任せますよ!と。毛利にとって宮島の宗教的なことは重要であるという認識だったよう。どの程度重要だったかは別にして。

個人的に興味深いのは「伊勢の新発意」って所。つまり一乗坊は「宮島町伊勢」の寺になります。
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