陶晴賢敗死之碑

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陶晴賢敗死之碑

名前陶晴賢敗死碑(スエハルカタハイシヒ)
場所高安ヶ原
毛利元就が安芸国の支配者となるキッカケの一つの合戦が「厳島合戦(1555年)」。この厳島合戦で毛利元就と戦い敗れたのが「陶晴賢」です。その陶晴賢が死んだ(とされる)場所にあるのがこの石碑。
観光で見に行くような場所ではないです。

瀬川博士と高山宮司

高安ヶ原の陶晴賢敗死碑には「大正十年八月十日 文学博士 瀬川秀雄 厳島宮司 高山昇」とあります。瀬川秀雄さんは歴史学者で毛利元就の戦跡を調べた人。文書を調べて高安ヶ原で陶晴賢が亡くなったと結論を出した人(だと思う)。高山昇は1914年(大正3年)から10年ほど厳島神社の宮司をしていた人物、かなりあちこちの神社(例えば富士山本宮浅間大社、伏見稲荷大社、乃木神社など)にお勤めしていた有名人。

高山さんは、千畳閣の修繕、平家納経の複本(=つまりレプリカ)を作るなど文化事業を行った人物で、この陶晴賢敗死碑もこの文化事業の一環だったじゃないかと思います。厳島合戦は神職とは関係のないことなのに、文化事業として行ったというのはかなり面白い、というか心が広いというか。

戦国時代に書かれた棚守房顕覚書の中では陶晴賢(=陶隆房)は大江浦まで逃げてそこで死んでいるのですが、江戸時代に成立の芸州厳島図会の中では青海苔浦から青海苔川を上り「高安ヶ原」で死んだことになっています。大江浦(弥山からみて西)に逃げるとするのは分かる。そこから船に乗れば対岸の大野まですぐですからね。しかし青海苔浦(弥山から見て南)に行っても逃げようがない。逃げようがないってのは極端ですが、水軍が毛利方についているのですからコッチに逃げても意味がないはずなんですよ。だからと言って嘘とも言えないのですが。
陶晴賢の首
ちなみに陶晴賢の首は取られまして、宮島で首実検(=首をチェックして手柄を確認する)をした後、普通なら、そのまま宮島に首を埋める「首塚」を作るものなんですが、毛利元就は首塚を作らなかった。現在、陶晴賢の墓は廿日市駅の近くの「洞雲寺」にあります。ただし洞雲寺の晴賢の墓が戦国時代からあったかは疑問。

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