棚守房顕覚書149 神泉寺寺領のこと

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棚守房顕覚書149 神泉寺寺領のこと

一、当島の道場神泉寺は無禄たる可き所に、防州の田布施の人をして申す事に、山口の道場の末寺たれば、田布施に二十石の在所ある由を申し候條、児玉就忠を以って愁訴し候ひて、二十石に神泉寺寺領に申し付けらる所なり

現代語訳

宮島の道場の神泉寺は無禄(=知行のない…無給)のものでしたが、周防の田布施の人が言うには、山口の寺の末寺でしたので、田布施に20石の土地があると言われました。児玉就忠(毛利の家臣で1506年に死亡)を経由して愁訴(=訴える事)しまして、20石が神泉寺寺領として申しつけられました。

解説

現在はない寺…神泉寺
宮島には神泉寺というお寺がありました。現在はありません。神泉寺は「時屋」「時寺」と呼ばれていて、時間を知らせる鐘を叩いていました。その神泉寺はこの覚書によれば山口の寺の末寺だというのです。末寺というのは、まぁ、管轄下にある寺という意味です。山口の寺ということは本来は大内関係のものだったのかもしれませんね。で、山口県の田布施という土地に20石の寺領があった。寺領から収入を得るはずだった。山口の寺の関係のものだったのならば、なんら不思議なことではないです。そのことを毛利の家臣の児玉就忠を通じて訴え出て、神泉寺の寺領として認められた…というもの。児玉就忠が1506年に死亡しているのでそれ以前のお話という事になります。
順番(記述の順序のことね)が無茶苦茶なんですよね。

この記述は、棚守が宮島の神社のみならず寺も「身内」だと考えていたからこそ、ではないかと思います。棚守は宮島の関係者を時にかばい、時になだめ、そして給料の配給権を握る事で支配した。神泉寺寺領は棚守が働きかけたわけではないでしょうが、宮島の「平和」のために、神泉寺の経済の安定のためにも大事な事であるという認識があったからではないかなと思います。だからこそ書き残した。

もう一つ、児玉就忠を通じて山口の寺との仲介をしているということは山口に毛利はそれなりの影響力があったということではないでしょうか。ま、そんなに気にすることではないかもしれませんが。
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