桜尾城跡・桂公園

MENU
TOP >> 桜尾城跡・桂公園廿日市 歴史的建造物 おすすめ度☆★★★★ 厳島合戦
スポンサードリンク

桜尾城跡・桂公園

名前桜尾城跡・桂公園
場所広島県廿日市市桜尾本町11
創建大正元年(1912年)に桂元澄の子孫の桂太郎公爵が廿日市市に寄贈してから桂公園と呼ばれるようになった。現在はただの小高い公園。

アクセス

桜尾城とは…鎌倉時代

廿日市の桜尾にある城で小高い丘の陸路の要衝にある。
平安時代の終わりに平家とつながりがあった厳島神社の神主である「佐伯家」は鎌倉幕府によって神主から引き摺り下ろされて、代わりに厳島神社の神主となったのが藤原氏。藤原氏というと貴族のイメージがあるんですが、この藤原氏は「武士」でした。桜尾城はその頃…承久3年(1221年)の承久の乱の直後くらいに築城されたのだろうと言われています。
●私たちが「城」というと大阪城や姫路城などを思い浮かべますが、あれは「平城」で平地に作る高層建築物。一般的な城は「山城」で、小高い山に小屋を建てたものです。

その藤原氏ですが当初は鎌倉で生活していて、実質の神主の仕事は地元の人に任せていました(おそらく佐伯は立場は失ったが神職は継続していて任されていた)。しかし、中央(鎌倉)で仕事がなくなって来ると鎌倉時代の後期には藤原神主が安芸国に住み着き始めます。

室町時代から戦国時代

そこに長々と藤原氏が居城として仕事をしていました。室町時代に入ると、陸路の要衝であることから、安芸武田氏に攻められます。それで周防の大大名の大内氏に頼るようになり、大内との蜜月が始まります。大内義興にくっついて京都に行った神主の藤原興親が死んだことから、その親族である友田興藤と小方加賀守で神主争いが勃発します。桜尾城は友田の居城で、友田が神主として名乗ることになります。
友田はなんと安芸武田氏・山陰の尼子氏と結んで大内に謀反するのですが結局、大内義隆に殺されてしまいます(1541年)。死んだのはもちろん桜尾城。
●友田興藤が死んだことにより、棚守などの佐伯氏が厳島神社内で復権することになる。
●桜尾城が築城されたのが1221年だとするならば320年の藤原氏の桜尾城居城が終わった瞬間です(友田も出自は藤原氏)。

桜尾城は大内の家臣が番をしていましたが、その後、大内義隆が部下の陶隆房に大寧寺の変で殺され、厳島合戦(1555年)で陶隆房(=陶晴賢)が死亡すると、桜尾城は毛利の部下である桂元澄が居城にします。その後は、毛利元就の子供の一人の穂井田元清(=毛利元清)が居城にします。しかし、1600年に関ヶ原の合戦が終わり、毛利が安芸国から防長へ移動する際に廃城となります。
●折敷畑山の戦いでは桜尾城(毛利)と折敷畑山(陶)で対峙しています。

明治以降

この土地は桂元澄の子孫の桂太郎の持ち物になっていました。その土地を廿日市に寄進したことで桂公園が生まれました。現在も、公園になっています。観光として見にいくことはないでしょうが、歴史的には意味のある土地です。

スポンサードリンク

ブログや掲示板に紹介する場合

ブログやサイトに紹介する場合(タグ)

編集