棚守房顕覚書141 宝蔵のこと・盗賊侵入のこと(2)

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棚守房顕覚書141 宝蔵のこと・盗賊侵入のこと(2)

彼の宝蔵を、明応年中(1493年〜1500年)の事やらん。予州今治の的場と伝ふ海賊、10月20日の夜、板敷を焼き貫き、昔よりの太刀刀をとる。小松殿(=平重盛)のヨロイをもとりし、河野殿にとらへられ、返されける。カイラゲ(=鰄淵=サメの皮膚で刀の柄などの材料)丸さやの太刀ども、同具の無きは、何れも当社のタタリあって返す。寄進の物なり。義興の一文字、広元の稲光はそれ以後の寄進なり。

義隆より、彼の一文字を御請けあるべきの由を、日積の若椙陽雲等を以て房顕に仰せ出さる。御鬮次第とて鬮を給い候へども、をりず、同じく今に宝蔵にあり。

吉平の刀は上より寄進。国吉の刀なし。和殿の丸貫の脇差は、井原の弾正忠の奉納になり。目録宝蔵にあり。

現代語訳

明応年中(1493年〜1500年)のことです。この宝蔵に予州の今治の的場という海賊が10月20日の夜に、宝蔵の板敷きを焼いて貫いて、古来から奉納されている刀を盗んでしまいました。小松殿(平重盛)の鎧を盗んだのですが、河野殿に犯人は捉えられて、小松殿の鎧は返却されました。サメのザラザラの皮膚で滑りにくくした鞘の太刀など、これらのものが無かったのですが、当社の祟りがあって、返却しました。
大内義興の一文字、毛利弘元の稲光はそれ以後の寄進です。

大内義隆から、この大内義隆の父親の義興の一文字を、返して欲しいと日積の若椙陽雲という人物などを通じて棚守房顕に言いました。棚守房顕はクジ次第だとしてクジ引きしたのですが、厳島大明神の許可が降りず、今でも宝蔵にあります。

吉平の刀は毛利からの寄進。国吉の刀、和殿の丸貫の脇差は、井原弾正忠(=井原元良=毛利の家臣)の奉納です。その目録は宝蔵にあります。
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