曽我灯篭…宮島にある日本最大敵討ちの曽我兄弟の灯篭

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曽我灯篭

名前曽我灯篭
創建不明
日本三大敵討ちの一つ、曽我兄弟の鎮魂のための灯篭とされる。厳島神社で寄進されたものの中では最古の部類。

曽我兄弟って何??

日本で敵討ちというと有名なのは「赤穂浪士(忠臣蔵)」なんですが、それよりもずっと以前、鎌倉時代に非常に有名な敵討ちの物語がありました。それが「曽我兄弟の敵討ち」です。

源平の争いの中で生まれた敵討ち
安元2年(1176年)10月。工藤祐経(クドウスケツネ)なる人物がいまして、彼の叔父にあたる伊東祐親を、刺客を雇って暗殺しようとしたのですが、誤って伊東祐親の子供で嫡男の「河津祐泰」が死んでしまいました。この河津祐泰には二人の子供がいました。それが「一萬丸と箱王丸(この二人がのちの曽我兄弟)」でした。未亡人となった河津祐泰の妻の満江御前は、曾我祐信と結婚し、兄弟は曽我の名を名乗るようになります。このときはまだ平安時代の終わりでした。

平家が倒れ、源氏の世のなり、兄弟も大人になりました。兄弟の祖父の伊東祐親は平家についていたので没落したのですが、なんと父の仇である工藤祐経は源氏に取り入り、出世していたのです。そこで兄弟は父の仇を取ることにします。

建久4年(1193年)、源頼朝が富士の裾野で巻狩りを行います。巻狩りというのは、部下と一緒に狩をすることで軍事訓練をするものです。遊びながら意思疎通を果たし軍事強化をするって感じですね。その富士の裾野で遊女と遊んでいた工藤祐経を曽我兄弟(曾我祐成と曾我時致)が暗殺します。兄の曾我祐成はその場で死亡。弟の曾我時致は取り押さえられましたが、結局、工藤祐経の子供に嘆願されて、斬首。

灯篭とは

灯篭はお供えのために神社に贈るものなんですね。では、誰が宮島に灯篭を寄進したのかというと、伝承では「手越の少将」と「大磯の虎」なる女性です。手越の少将は駿河国(静岡県)手腰宿の遊女で、富士の裾野の巻狩りで工藤祐経と一緒にいた遊女のこと。で、大磯の虎は曽我十郎(=曾我祐成)の恋人で大磯(神奈川県)の遊女。当時の遊女というのは売春婦というよりは、歌や踊りが出来る高級コンパニオンって感じですね。
つまり、敵討ちされた男の相手をしていて遊女と、敵討ちした兄の恋人の遊女が灯篭を寄進したということ。
ま、史実ではないでしょう。

曽我灯篭の意味

曽我灯篭がなぜあるのか、というのは分かりません。曽我兄弟の敵討ちはかなり有名なもので、観光・話題のために設置したのかもしれませんが、それでも縁もゆかりもなさすぎるのですよ。唯一関係しているのは兄弟の祖父が平家方だったってくらい。

個人的な見解ですが、宮島は「彼岸」だったのだと思います。宮島はあの世であり、死者の魂が帰る場所という認識があった。だから曽我兄弟の魂は厳島神社で鎮魂すべきだと。これは平康頼の卒塔婆(康頼灯篭を参考に)や二位尼の灯篭も同様で、宮島が死者の国であるからこそなんでしょう。
いや、もっと言うならば、宮島は「怨霊の吹き溜まり」なんじゃないかなと思うのです。宮島は死者の魂を封じ込める場所だったのではないかと。だから、灯篭を立てるし、卒塔婆も流れ着く。世間としてはそう言う認識だったんだと思います。ここで鎮魂しておけば、怨霊は祟らない。そういう文化的な背景があるんだと思います。

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