後白河法皇御手植えの松

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後白河法皇御手植えの松

名前後白河法皇御手植えの松(ゴシラカワホウオウオテウエノマツ)
場所厳島神社の裏。厳島神社の出口から、グルっと裏を回る途中にあります。
伝承伝承によれば、承安4年(1174年)3月に厳島神社に参詣した際に御手植えした松。明治に入って、切り倒された。

アクセス

由来

後白河天皇(=後白河上皇=後白河法皇)が厳島神社に参詣した時に御手植えしたとされる松が、明治初期に切り倒されたものが展示されている。現在は網がかけてあるんですが、昔は…21世紀に入ってから程度の昔ですが…網はなく、木を手で触れることができた。

本当に後白河法王は御手植えにしたの?

いつからあるのかよく分からないし、実際に御手植えなのかも怪しい。
後白河法皇は超有名人
江戸時代には庶民にまで平家物語の知識があり、歌舞伎にも平家物語のお話の一部が取り上げられるくらいですから、平家物語の知識が常識としてあった。後白河天皇は平家物語では超主要人物。平家物語は「平家」というネーミングなんですから「平家」がメインではあるんですが、後白河天皇は間違いなく、もう一人の主人公というべき人物。そんな後白河天皇は確かに厳島神社に建春門院(=平滋子=清盛の娘)や平清盛とともに参詣しているんです。だから御手植えにしていても不思議じゃない。でも、だからって史実とは限らない。

個人的には実際に後白河天皇が植えた、というのはなく、江戸時代に観光名所として設定されたんじゃないかなと(ただし古いものであるのは間違いないし、創作であるという証拠があるわけでもない)。
んじゃ、なんでそんな設定になったんだ?っていうと、平家物語が一般的な知識として浸透していたからです。超有名人の後白河法皇だからこそ、観光資源として成立する。その根本にあるのは、庶民の文化度の高さなんです。

後白河法皇の御手植えの松はなぜ切り倒されたか?

明治に後白河天皇の御手植えの松が突然切り倒された「理由」は明記されていないんですが、おそらく明治維新があり、天皇が担がれて政府が成立したことから、廃仏毀釈・神仏分離がされまして、それで切り倒されたんじゃないかと思います。
後白河天皇は「仁安4年(1169年)6月」に出家して法皇となっています。つまり後白河法皇は「仏教」の人。彼が植えた松は、廃仏毀釈で排除され、切り倒された。
廃仏毀釈は地域によって温度差がある
「そこまで苛烈だったのか?」と思うんじゃないでしょうか。実は廃仏毀釈は地域差があって、どうやら広島県ではかなり厳しかったよう。例えば、厳島神社の大鳥居は明治の途中まで「赤は仏教的だ」とされて白かったり、厳島神社自体も同じ理由で白かったんです(わざわざ丹塗りを砂で削り落としている)。厳島神社が「うちはずっと赤かったから…と渋ると、「だったら焼き払え!」と言われる始末。
そんなですから「法皇」を理由に切り倒されたんだと思います。

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