康頼灯篭(ヤスヨリドウロウ)…喜界島から帰った平康頼

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康頼灯篭(ヤスヨリドウロウ)

名前康頼灯篭(ヤスヨリドウロウ)
場所厳島神社境内内
簡単に言うと鹿ケ谷の陰謀で喜界島に島流しになった平康頼が罪を許されて京都に帰った。その後、平康頼が厳島神社に寄進したと平家物語にあります。平家物語を読んだ人はまぁまぁヒキのある観光名所ではないかなと。

康頼燈籠の由来

鹿ケ谷の陰謀
平安時代の終わり、治承元年(1177年)に鹿ケ谷の陰謀とか鹿ケ谷の謀議と呼ばれる事件が起きます。これは後白河上皇を中心とした平家を敵対視する人たちが、鹿ケ谷という場所で謀議して「平家打倒」を画策したことが、平清盛に発覚し、謀議に関わった人物が死刑になったり、流刑になりました。

この謀議に関わった人物の一人が「平康頼(タイラノヤスヨリ)」です。平康頼は喜界島に流されます。喜界島は鹿児島県奄美大島の西の島です。ほとんどこの世の果てですね。その喜界島で、お寺や神社に通って神仏に祈り、都に帰れるようにとお願いし、以下の二つの歌を1000枚の卒塔婆に書いて流しました。
薩摩方おきの小島にわれありと親には告げよ八重の潮風
思ひやれしばしと思ふ旅だにもなお故郷は恋しきものを

卒塔婆には名前も書いてありまして、その卒塔婆が厳島神社に流れ着いたというのです。その流れ着いた場所が、康頼灯篭のそばにある卒塔婆石です。

喜界島の場所


で、卒塔婆が厳島神社に流れ着いたことが京都で話題になり、ついに平康頼は罪を許されて京都に戻ることになります。それが治承2年(1178年)のこと。平康頼は1年ほどで許されたわけです。
●日本では良い歌を歌うことで、救われるという物語のパターンがあります。平康頼は上手な歌を歌うことで京都に帰ることができたのです。
●平家物語によれば、罪が許されたのは厳島神社のおかげだと、灯籠を寄進したとあります。ただし史実かどうかは分からない。

平康頼は平家じゃないの?

平康頼は元々は中原という名の家で平氏ではありませんでした。彼は平頼盛の子供の平保盛の部下になります。それで、上司である平保盛の「平」の名前をもらったようですが、そこのところはハッキリしません。
さて、平康頼は平保盛の部下なんですが、平保盛の親が平頼盛。で、平頼盛は平清盛の弟になります。

平家は一枚岩ではない
私たちはなんとなく平家は一枚岩だと思っていますが、実は平家内部で揉めていたんです。特に平清盛と弟の平頼盛はビミョーな関係でした。清盛が平家の棟梁であることは間違い無いんですが、頼盛は一の谷の合戦や壇ノ浦にも一切参加しておらず、それどころか平家を滅ぼした源頼朝に「父」のように厚遇されているんですね。
●ちなみに平頼盛の母が池禅尼です。源頼朝は平治の乱の際に池禅尼の嘆願によって命を救われています。頼盛を父のように厚遇したのは池禅尼から受けた「恩」と言われていますが、その辺りは割愛。

頼盛の子供の平保盛の部下である平康頼が鹿ケ谷の謀議に参加したのは、そういう背景があるのです。

卒塔婆が厳島神社に流れ着いた??

鹿児島の喜界島から流れ着くわけないです。このお話は平家物語にあるものですが、もちろん創作。しかし、どうして厳島神社に卒塔婆が流れ着くのか?? これは宮島が「異界」であり、「あの世」「彼岸」という感覚があったからでは無いかと私は考えています。宮島はあの世だった。この世の果てだった。だから卒塔婆は流れ着く。これは二位の尼の遺体が宮島に流れ着いている(とされる)のと同じで、「流れ着いても不思議じゃ無い。なぜなら宮島はあちらの世界だから」と当時の人たちが考えていたからだと思います。
●厳島神社は平清盛が修造していない。
●清盛は確かに厳島神社を崇敬していたが、弟の平頼盛もかなり熱心に崇敬していた。それが卒塔婆が流れ着くという伝承の根っこにあるのではないか。つまり平康頼にとって「あの世」とは厳島神社であると「世間は考えていた」ってことです。

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