棚守房顕覚書126 毛利氏九州遠征

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棚守房顕覚書126 毛利氏九州遠征

毛利隆元公は永禄6年(1563年)8月、遠行しました(=死亡した)。その後、毛利元就、吉川元春、小早川隆景、毛利元秋、穂井田元清、その他の安芸国、石見、出雲、伯耆、備後、備中、周防、長門の10カ国の衆は、永禄12年(1569年)それぞれが筑前の橘城(=立花城)に下向しました。大内輝弘(=大内政弘の子で大内義隆の叔父)が加勢して後巻(=支援勢力による挟み撃ち)にあってしまい、2000人ほどで山口に打ち入りました。

毛利、九州へ

毛利隆元が永禄6年(1563年)に死亡。この経緯に関しては割愛します。その後の永禄12年(1569年)、毛利は九州を取りに行きます。九州には大友氏がおり、毛利はその大友の立花城を包囲して攻略するのですが、大友も黙っていません。九州にいた大内氏の血を受け継ぐ大内輝弘を山口に送り込みます。

大内輝弘が山口入り
大内は32代続く名門の家。陶隆房に大内義隆が殺され、毛利によって陶が倒されると、ついでとばかりに大内は毛利によって滅ぼされ、山口は毛利の支配下になりました。山口の古くからの大内の家臣たちはほとんどが毛利に従いました。しかし、中には伝統ある大内を滅ぼした毛利に対する不満を持つものあり、この永禄12年(1569年)までにも既に何度も小規模の反乱が起きていました。

そこに大友のバックアップを受けた大内輝弘が山口に密かに入ったことで、大内の家臣だったものたちは大内輝弘の軍に参加。一時的にはかなりの人数になったようです。山口の毛利に味方する城を落としにかかります。
しかし、毛利の対応はさすが。すぐに立花城攻めを止め、山口の大内輝弘鎮圧にかかります。
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