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御文庫(オブンコ)
アクセス
歴史
寛政年間(1789年から1801年)に光明院の僧侶の「学信(ガクシン)」の発起によって建てられた。つまり、現在こそ厳島神社の管轄になっているが、本来は光明院の管轄の建築物だった。江戸時代は「名山蔵(メイザンゾウ)」と名付けられ、孔子を祀る壇があった。二十一史(=中国の歴代の歴史書)、十三経(=儒教の本)が納められていた。御文庫と千畳閣(豊国神社)の間には転法輪蔵・竜宮界蔵という輪蔵があるらしいです。輪蔵というのは、中にお経が入っていて、それを回転させるとお経を全部読んだことになるという「摩尼車(マニグルマ)」みたいなものです。
廃仏毀釈
明治に入り、廃仏毀釈の中で仏教建築物は排斥された。江戸時代の宮島は現在とは比べ物にならないほどの寺がありまして、寺の関係の建築物と、寺とは関係のなさそうな建築物もたくさんありました。それらがかなり「無くなって」います。たとえば、この御文庫のそばには「湯立殿(ユダテデン・ユダテドノ)」という建物があったのですが、現在はありません。無くなったのは壊された、のかもしれませんが(そのケースもたくさんあったはず)、神仏分離されたことで収入源が断たれて、徐々に消えたというのも多かったよう。
その中で御文庫は光明院の建築物ですから、仏教関係の施設と見られて当然のもの。消えても不思議じゃないんですが、蔵書の貴重さと、厳島神社の管轄に属することによって存続した、のではないかと思います。実は、明治の廃仏毀釈で何がどうなったのかはよく分かっていなんです。だから推測です。
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