棚守房顕覚書120 毛利氏尼子勝久を上月城に亡す

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棚守房顕覚書120 毛利氏尼子勝久を上月城に亡す

一つ、播磨国の上月城に尼子勝久は鹿之介(=山中幸盛=山中鹿之介)は差し籠もるといえども、天正6年(1578年)8月に尼子勝久に腹を切らせまして、その他の宗徒のものが数人が討ち果たしました。

山中鹿之介の最後
鹿之介(=山中幸盛=山中鹿之介)は甲部川(=岡山県高梁市落合町阿部)で討ち果たしました。荒藤四郎が栗屋新右衛門尉を打ち取って上(=京方面)へ上りました。

毛利と尼子

永禄9年(1566年)に毛利に攻められ、尼子氏は滅亡するのですが、永禄11年(1568年)尼子の家臣たち(山中鹿之介・立原久綱)などによって尼子氏は復興。その時に、僧侶となっていた尼子勝久が擁立されてます。尼子勝久は五男ですから、お家騒動を避けるためにも追い出されたんでしょうね。再興はしたのですが、領土がありませんので、とりあえず島根県の隠岐島で細々とやっていましたが、永禄12年(1569年)に出雲に上陸します。しかし、毛利にコテンパンにやられて、京都に逃げて、織田信長の傘下に入ります。それで播磨国上月城の守備を任されるのですが、その上月城にやってきたのが、またしても毛利。織田信長・秀吉は上月城から撤退するように命令したのにもかかわらず、尼子勝久はそれを無視して毛利と決戦に挑みます。

この経緯を見ると、尼子とその家臣たちが信長の命令を無視して、毛利と決戦に臨んだのは分からないまでもないですね。尼子というと安芸国進出しようとして引っ掻き回した張本人。吉田郡山城で毛利をあと一歩まで追い込んだことまでありました。盛者必衰とはこのことですね。ほんと。

で、尼子は完全に滅亡。山中鹿之介は捕虜となるのですが、その移送途中である「甲部川」で殺されます。その後に書かれた「荒藤四郎が栗屋新右衛門尉を討ち取って…」というのはよく分かりません。

しかし、どうして山中鹿之介の話を特別に書いたのやら。まさか、山中鹿之介が美少年だから?じゃないでしょうね??
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