棚守房顕覚書114 社殿建替と遷宮

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棚守房顕覚書114 社殿建替と遷宮

一つ、社頭(=神社の周辺)のこと、建替えました。

遷宮に吉田兼右を招く
遷宮の儀式は往古(昔)であれば、当社の社家老中たちの中で調整して来たのですが、棚守房顕は当社のことで、(厳島神社が今後も)益々太やかにありたい(=繁栄したい)と思っていたので、毛利元就公に申して、従前の神道伝授であれば、京都の吉田神主兼右(=吉田兼右)を呼んで下そう(=京都から下ること)と言いました。

元亀二年(1571年)未歳6月14日、毛利元就公が死去しましたので、万事が相違(=全てがダメになる)したのですが(そうなってもおかしくないのに)、吉田兼右を呼び下しました。12月21日に下向しました。長楽寺(=宮島の滝町にあった寺)を宿坊に申しつけ、21日より晦日(=30日)までは棚守が賄い(=世話をする事)をし、正月1日からは上(=吉田=毛利)が賄い(=世話)しました。

遷宮

厳島神社は1571年に遷宮をします。
遷宮とは神社を立て直して神様を引っ越す事。
棚守房顕覚書では和知兄弟の殺害という事件があって建て替えを行っているために、これが「遷宮のきっかけ」という書き方です。

吉田兼右と厳島神社
で、遷宮するにあたって、吉田兼右を呼んだ。吉田兼右は神道の有名人で彼から儀式の方法を伝授してもらうことになります。彼を呼んだのが毛利元就。かなり協力的なんですよね。棚守としては儀式をしっかりと行って厳島神社を箔づけして発展させようという腹づもりみたいです。単に伝統的な儀式を守るのではなく、外部からも取り入れようというのが良いことなのか、悪いことなのかは何とも言えませんが。

元就が死んでも吉田兼右を呼んでくれた
しかし厳島神社の遷宮の年には毛利元就は死去。それで吉田兼右の件はパーになるかと思いきゃ、ちゃんと呼んでくれた。その世話を棚守もしたし、毛利もした。どうやら毛利は厳島神社をシッカリと崇敬するように子供達にも言い渡していたようです。

銘刀荒波のところで、神慮に叶わないことをした将軍や毛利隆元が次々に死んでいったことを毛利元就は恐れたんじゃないかと個人的には思いますが、それはともかく、これで厳島神社はさらに発展していきます。
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