棚守房顕覚書111 観世太夫一行来島演能

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棚守房顕覚書111 観世太夫一行来島演能

一つ、観世太夫が下向しました。吉田(=毛利)から当島(=宮島)に参詣がありまして、まず宿は、岡の飯田右近のところです。それ以後の宿は神子内侍の飛鳥井殿の宿ならば、観世太夫も同じ宿に申しつけました。昔、観世太夫が下向した時は、舞舞台で仕った(=能を演じる事)のですが、見物所もなければ、今度は江(=海)の中に舞台を張らせるように申しつけ、神前で9番仕り(=踊り)、それ以後は棚守宿所に舞台を張らせて、11番仕りました。その時の見物は聖護院殿(道増)、飛鳥井殿(=飛鳥井雅教)、御両所見物しました。山口に逗留の安喜興八が狂言をしました。
その年、幸若太夫が下向し、逗留7月中、また、その次の年、八郎次郎が下向しました。

観世太夫と宮島

観世太夫が宮島にやってきて、能を演じたというお話。しかも観世太夫が棚守の宿所で演じた時に見物したのが「聖護院道増」と「飛鳥井雅教」という二人。この二人に関してはすでに登場しています。道増は棚守房顕覚書98 聖護院准后来島・連歌興行棚守房顕覚書108 聖護院准后来島・連歌興行。飛鳥井雅教は棚守房顕覚書107 飛鳥井雅教・飛鳥井雅綱来島に見られます。
二人ともが芸術面の有名人。

他に安喜興八なる人物が狂言を演じ、また、幸若太夫が逗留したことが書かれています。幸若太夫は、幸若舞の宗家。幸若舞は鎌倉時代から戦国時代にかけて能と並んで人気のあった芸能です。

能舞台について

棚守房顕の書き方でいうと、前回来島した時は「能舞台はあったが、見物するところがなかった」とある。で、今回は「見物所を張った」とあります。前回の観世太夫の能が「永禄6年(1563年)」だろうと思われます。ちなみに永禄6年(1563年)に聖護院道増が毛利と大友宗麟の「和議」のために広島に来ています。どうやら宮島で能が始まったのはこの道増が来島したのがキッカケのよう。観世太夫が亡くなったのが天正11年(1583年)なので、このページはその間のことでしょうね。

ところで、福島正則が慶長10年(1605年)に能舞台を作ったことになっているので、このページでの能舞台は常設ではないことになっているのですが、程度はともかく(おそらくボロだったため、長持ちしなかった)、常設の能舞台はすでにあったんじゃないかと個人的には思います。
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