棚守房顕覚書109 細川隆是来島

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棚守房顕覚書109 細川隆是来島

一つ、毛利輝元の元服につき、細川是久の息子の細川隆是が下向されました。お目にかかり、吉田(毛利)に上り、直ちに上洛されました。
足利義輝(13代将軍)を松永弾正忠(=松永久秀)が腹を召されたとき(=自害させた)、お供しました。

毛利輝元の元服と偏諱の事情

毛利輝元の元服は永禄8年(1565年)。
その時の記事になります。毛利輝元は12歳か13歳ほど。輝元の「輝」は足利義輝の「輝」から一文字貰っていて、その許可の使者が「細川隆是」だったんでしょうね。この一文字もらうことを「偏諱」とか「一字拝領」と言います。義輝から偏諱するということは、足利義輝を当主として敬うという意味になります。当時は、守護の役職はまだ将軍から「貰う」ものでしたから、そういう「おべっか」も大事な戦略でした。ちなみに、父親の毛利隆元は守護の役職をもらうために、厳島神社に奉納した「銘刀荒波」を将軍足利義輝に贈っています。
●父親の毛利隆元は永禄6年(1563年)に死んでいます。毛利元就としては和知兄弟が暗殺したという認識だったようですが、棚守房顕はもしかすると厳島神社の神慮を無視して銘刀荒波を持ち出した毛利隆元に対する祟りという認識だったのかもしれません。

偏諱の直後に足利義輝は死亡
そうして、毛利輝元は足利義輝を敬うような名前をつけたのですよね。ところが、永禄の乱(永禄8年=1565年5月)で足利義輝は死亡。そして部下だった細川隆是は殉死。偏諱した直後、同じ年のうちにこんなことになっちゃったわけです。

もう一つ。
細川隆是の父親の細川是久は元は大内家の家臣で、大内義隆の養子の大内晴持(=一条恒持)が第一次月山富田城の戦い(1542年)に死んだ時に同じく死んでいます。因果な親子です。
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