棚守房顕覚書108 聖護院准后来島・連歌興行

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棚守房顕覚書108 聖護院准后来島・連歌興行

一つ、聖護院殿(=天台宗の聖護院門跡26代道増)が下って来られて、これらの段(=下って来られたこと)を注進(=報告=毛利に)したところ、吉田(=毛利)から馳走(=もてなすこと)するべきとの由が在りました。社家は各々一会づつ興行しました。棚守房顕は千句を歌う連歌会を度々興行しました。門跡(=道増のこと)もお返しにと千句の興行をされて、事の外の馳走で、特別に懇切だった。

聖護院殿

聖護院殿に関しては「棚守房顕覚書98 聖護院准后来島・連歌興行」でほぼ同じ記事があります。前回は「永禄6年(1563年)」に毛利と大友宗麟の和議をするために下校した際の話だろうとされています。今回は、永禄11年(1568年)に来島したのだろうとも思われるんですが、陰徳太平記には同じく聖護院門跡の道澄の来島とあり、どちらかは実ははっきりしないです。
道増なのか道澄なのかについては棚守房顕覚書の中には明確な記載はないです。

2度書いたとしても不思議じゃない理由

棚守房顕覚書98 聖護院准后来島・連歌興行」と恐ろしいほどにほぼ同じ記述で、2度書く意味があったのかと思います。
道増と道澄の別の人物の来島なのかもしれない。それなら2度書いても全く違和感はないが……

2度書く意味があったのでしょう。棚守本人にはあったんだと思います。文化大好き芸術大好きな棚守からすれば、聖護院殿がやってきて連歌会をしたことは名誉なことで、至福だった。のではないかなと。それで記憶に残っていて、書きたくて仕方なかった。そもそも、棚守房顕覚書自体が、棚守が「徒然なるまま」に書いたもので順序がズレていたり、誤字脱字の多いもので「正式」なものではないのですよね。だからこそ、生々しい人間が見えるってのが面白いんですよね。
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