棚守房顕覚書107 飛鳥井雅教・飛鳥井雅綱来島

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棚守房顕覚書107 飛鳥井雅教・飛鳥井雅綱来島

一つ、飛鳥井雅教卿が下向しました。京都において門弟に尋ねなされて、神泉寺を宿坊に申しつけ、20日ばかり御在島して、ここから豊後へ御下向しました。
また、飛鳥井雅綱も下向されて、宿坊は在ノ浦の多居庵でした。御息八幡斎性院と同行していて、豊後から上ってきた時に、船待ちの間、3、40日ばかり御在島して鞠御会などを再々、興行しました。その後に上洛されました。

飛鳥井は蹴鞠の家

飛鳥井雅教は京都の公家。飛鳥井の家は「蹴鞠」の宗家で、その門弟が沢山いました。蹴鞠の有名な家なだけでなく、蹴鞠をするってことは芸術に秀でた家ということです。その飛鳥井雅教は神泉寺に宿泊した。ちなみに神泉寺は二位尼(=平時子)を祀る寺で、別名が時寺。江戸時代には宮島の英雄「誓真」が番僧をしていた寺でもあります。
●芸藩通史にには「永禄年中(永禄は1558年から1570年)」に読んだ和歌が書かれていて、その中に飛鳥井雅教の名前が見られる。他の和歌は厳島(宮島)の人の歌のようです。つまり文化人の飛鳥井雅教がやって来たので、せっかくだからと和歌の会が開かれた。「飛鳥井雅教さんと囲む会」みたいな感じですね。

父の飛鳥井雅綱も来島

次に飛鳥井雅綱も宮島にやって来た。飛鳥井雅綱は飛鳥井雅教の父親で、蹴鞠の宗家。彼は在ノ浦の宿に泊まった。どうも扱いが「飛鳥井雅教」の方が上な気がします。その時、「御息八幡斎性院」も同行していた。息子のことですが、具体的にどんな人物なのか(私には)よく分かりません。で、飛鳥井雅綱も豊後に行って、そこから帰ってまた宮島に立ち寄って、船を待って30日から40日も待った。その間に蹴鞠の会を興行した。そんで京都に帰って行った。
●船を一ヶ月も待つのが当たり前だったのでしょうか??

この棚守房顕覚書は棚守房顕が徒然に書いたもので、誤字も多いし、順番も必ずしも正しくない。それに「興味があるもの」を書いているのがポイント。つまり、棚守房顕は文化大好き。公家がやって来られて文化振興をされたことが印象に残っていたんでしょうね。
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