棚守房顕覚書105 銘刀荒波のこと(7)

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棚守房顕覚書105 銘刀荒波のこと(7)

岩国の永興寺の丹東堂は、雲州(=出雲国)の島根の陣へ上り、7月6日に下向し、宮島の南町の民部大夫のところに到着しまして、東福寺の賢西堂と永興寺の菊蔵主と京都から7月6日に下り、会って、永興寺と同宿しました。

この荒波の刀を賢西堂が持って(京都から)下り、山口の常栄寺の新東堂に渡すべきとの由(経緯)を物語しました。その頃、常栄寺に下向することになり、この刀が新東堂に渡ってしまえば、(厳島神社の)神前に帰って来なくなるだろうと、棚守房顕にこの段を永興寺から話がありまして、色々と話して説得して、賢西堂は荒波の刀を棚守の宿所に持って来られました。その日は七夕(7月7日)で、宝蔵に奉納しました。この刀のことは永興寺丹東堂の寄進としました。あまりに奇特で不思議な仕合わせ(=巡り合わせ)なので書き記しておきました。

まとめ

このお話、ちょっとややこしいのでまとめておきます。

登場人物1は「山口の常栄寺の新東堂」
彼は山口県のお坊さんなんですが京都に宿坊に滞在していて、そこで将軍(足利義輝)から荒波を「返しておいて」と託されます。将軍の若君が死んだ理由が将軍が「荒波をポッケないない」したための「神罰」だと考えたのでしょう。普通の人に託しても祟られるかもしれない。そこで坊主に託したのだと思います。
しかし、この常栄寺の新東堂はこの銘刀荒波が思いの外に高値で取引されるものだと知って返却するのが惜しくなります。そこで預けていたのが「東福寺の賢西堂」なる坊主。

登場人物2は「東福寺の賢西堂」
東福寺は千畳閣をのちに建築する安国寺恵瓊の属する寺で、毛利隆元はこの東福寺の「竺雲恵心」というお坊さんと仲良くしていました。仲良くというか、悩み相談をしていました。隆元の非常にネガティブな手紙が残っていて毛利隆元が優秀な父と兄弟に強いコンプレックスを持っていたことが分かります。

毛利隆元は将軍から安芸国やその他の守護に任命してもらうために賄賂を送った。それが「銘刀荒波」です。厳島神社に圧力をかけて荒波を出させたのです。その毛利隆元も死んだ。ちょっと不思議な死に方をしています。
東福寺は毛利隆元との繋がりから「弔問」のために京都から下向して来たのですね。

この東福寺の賢西堂なる人物が、刀を持って宮島にやって来ていた。賢西堂は彼に荒波を預けた「山口の常栄寺」に持って行く途中だった。そうとは書いてないんですが、そういうことでしょう。それで「永興寺の菊蔵主」なる人物と宮島にいた。仲良しだったんでしょうね。

登場人物3は「永興寺の菊蔵主」
永興寺の菊蔵主は岩国のお寺の人物。宮島からほど近いお寺です。東福寺の賢西堂と京都からやってきて、永興寺の丹東堂と同宿した。丹東堂は当然ながら同じ寺の人物ですから、アレコレとお話をすることになります。すると、東福寺の賢西堂が荒波を持っているというではありませんか。

登場人物4は「永興寺の丹東堂」
荒波は本来は毛利から厳島神社へと寄進された「神のもの」です。それを将軍が取り上げ、今は、将軍から渡された山口の常栄寺の新東堂がポッケないないしようとしている。どうやら、この経緯を永興寺の丹東堂は知っていたようで、これは大変と棚守房顕に報告した。
「このまま新東堂に渡れば、神前に返ってくることは難しい」
と、東福寺の賢西堂を説得したところ、東福寺の賢西堂は棚守の宿所まで荒波を持って来た。これにて一件落着。
そして、荒波は「永興寺の丹東堂」の寄進、ということになりましたとさ。
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