棚守房顕覚書104 銘刀荒波のこと(6)

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棚守房顕覚書104 銘刀荒波のこと(6)

この刀が(京都へ)上ってから、天下(=将軍のこと=13代将軍足利義輝)に不慮のことが到来しまして、若君様(輝若丸…永禄5年(1562年)4月生 - 同年7月15日没)が他界しまして、この荒波は山口の常栄寺の新当頭堂(新当堂=新東堂)の京都宿坊まで返しましたが、その由(経緯=返却のこと)を申して、(京都から)下されたのですが、この刀は京都においても40万疋(=疋は布の単位)はするだろうとあって、この常栄寺の新東堂はそのまま京都にいて、返されるべきとの沙汰(=道徳)がありませんでした。この刀を預り手の東福寺の賢西堂は、永禄6年(1563年)に毛利隆元の遠行(=死亡)しまして、その弔いのために、公方様からこの賢西堂を郷(毛利隆元の弔問のために)に下りました(=京都から下ること)。これが7月6日です。

これまでの事情

上野兵部大輔が荒波を持って京都へ。
荒波は厳島神社に毛利隆元によって奉納されたもので、そもそもは大内家の代々の家宝の銘刀。しかし、今は神社に奉納されたものは神社のもの。神社のものは、いくら将軍が所望しても渡すわけにはいかない…つまり「神慮に叶わない」ということで拒否していたのですが、おそらくは毛利は安芸国など中国地方の守護職を将軍から貰い受けるために棚守に迫った。それで棚守は仕方なく嫌々、荒波を渡した。

厳島大明神の祟り!

で、神慮に叶わないってことは、神の意志にそぐわないってことであり、その結果、神の怒りに触れることになり、祟りがあって当然となる。日本人の神様との関係はそういうものです。そこで、荒波に関わるものに、当然ながら不幸が訪れる。それで足利義輝の唯一の嫡男である生まれたばかりの若君…輝若丸が死亡。棚守としては厳島大明神の怒りに触れた結果です!と言いたい。

毛利隆元も死亡

また毛利隆元も死んでしまう。毛利隆元は荒波を奉納した人物ですし、棚守としては「小松殿の再来!」とウットリするくらいの人物。毛利隆元が厳島大明神の怒りの結果だ!とは、思っていたかはなんとも言えませんが、多少はそんな考えがあったのではないかなと。なにせ「吉田(毛利)に説得されて荒波を将軍に渡した」と書いてありましたからね。
毛利隆元は永禄3年(1560年)に足利義輝に安芸国の守護に命じられ、永禄5年(1562年)には備中・備後・長門、永禄6年(1563年)に周防の守護に命じられています。ってことを考えると荒波はこの賄賂だったと考えるべき。なるほど毛利隆元は厳島大明神に祟られて死んでも不思議じゃない。

毛利隆元の死の経緯

毛利隆元は永禄6年(1563年)に死亡。原因は食中毒とも言われますが、その能力を評価していた毛利元就は毒殺されたと考え、暗殺犯として和智誠春・柚谷新三郎・湯谷又八郎・湯谷又左衛門・赤川元保を誅殺。そのうち和智誠春と湯谷又八郎の兄弟を厳島神社に監禁、殺した。その死の穢れが厳島神社造営の理由になっています。現在の厳島神社はこの時(1571年)の造営です。

東福寺

もう一つ、このページに出てくる「東福寺」は後に毛利家の家臣となり豊臣秀吉の部下となって千畳閣(大経堂)を建てる「安国寺恵瓊」がいる寺です。
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