棚守房顕覚書98 聖護院准后来島・連歌興行

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棚守房顕覚書98 聖護院准后来島・連歌興行

一、聖護院殿(=天台宗の聖護院門跡26代道増)が御下向されました。吉田(=毛利元就)からご馳走がありました。当島の中の儀で、連歌興行を一会づつ興行しました。棚守房顕は千句など興行しました。その他の御意を得ました(意見を伺いました)

道増が来島

聖護院殿(=天台宗の聖護院門跡26代道増)は修験道の門跡。門跡は皇族・公家の子供が僧侶になること。道増は近衛尚通の子供です。その道増(ドウゾウ)が宮島にやってきました。道増は永禄4年(1561年)に毛利元就と尼子義久の間の和議の交渉をした。また、永禄6年(1563年)に毛利元就と大友宗麟との間の和議の交渉をした。この時はどうやら永禄6年(1563年)ではないかと。

連歌興行

来島した流れで「連歌興行があった」と書いているということは道増は連歌をしたってことでしょうね。

戦国時代において連歌は単なる歌を歌うイベントではなく、情報交換の場でした。連歌をするということは、中央や他の地域の情報をやりとりし、中央の文化を地方へともたらす、人気イベントです。中央の人物を迎えるということで、周辺地域のインテリがこぞってやって来る。人が集まり、情報が集まり、ま、ついでに金も集まり、そこにはビジネスが集まる。連歌興行は芸術文化イベントというよりは政治色の強い(少なくとも為政者側には政治イベント)ものでした。

道増が宮島で連歌興行をするということは、他の地域の情報がもたらされた。当然、棚守房顕に、ではなく棚守房顕を経由して毛利元就に、ということ意味です。
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