棚守房顕覚書89 厳島の戦(4)

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棚守房顕覚書89 厳島の戦(4)

9月28日。興家(=村上水軍)の警固2、300艘が下りました。9月29日の暮れに取りかかりました。毛利元就は乗船して、包ノ浦(=包ヶ浦)へ船を付けて、博奕尾へ登りました。興家(=村上水軍)その他の国衆などは博奕尾に大将の陣に鬨(トキ)の声が上った後、鳥居の洲から押し上り、陶晴賢(=陶隆房)、弘中隆兼は一矢も射なかった。西山をさして退却しました。小早川隆景は追いかけて、西山の峠で陶晴賢の部下の三浦房清と戦いになり、小早川隆景の部下の南の何某が、山懸勘次郎やその他の5、6人討ち取りました。小早川殿は安穏で、三浦越中(=三浦房清)は一箇所に二十人ばかり今して、小早川隆景に討ち取られました。陶全薑(=陶隆房=陶晴賢)はそれから下り、大江というところで腹を切らせました。宮川市充が介錯しました。その死の際まで5、6人が居ました。
陶の部下の柿並佐渡入道が「我が頭を取り、全薑(=陶隆房=陶晴賢)の頭として持ち出すべし」と言いまして、脇彌左衛門尉という新里(=新里市頭)の部下のものは首をセンの包にいれて、児玉周防守(=児玉就方)に捧げ、首を受け取り、脇彌左衛門尉も討ち取りました。

陶VS毛利・村上水軍

村上水軍のおかげで毛利元就は包ヶ浦に上陸。その後、博奕尾を登って行きます。そこで「エイエイオー」と声をあげる(本当にエイエイオーかどうかは分からないけど)と、大鳥居の浜を村上水軍と毛利の国衆が上陸した。陶・弘中の軍は挟み撃ちになって総崩れて退却。西山ってのは厳島神社の西側の山のこと。具体的にはよくわからないです。

小早川隆景の活躍

その後は、小早川隆景が「さすが」と言うべきか、陶軍を打ち取っていきます。すると柿並佐渡入道が、「自分の頭を陶晴賢の頭だと偽ろう」と言った。陶晴賢は頭を剃って坊主になっているので、柿並佐渡入道も坊主だから見間違えるだろうってことです。それで頭を跳ねて差し出した。すでに陶晴賢は死んではいるんですが、せめて遺体(頭)は守りたいという忠臣の考え方でしょうね。
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