棚守房顕覚書87 厳島の戦(2)

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棚守房顕覚書87 厳島の戦(2)

どのような謀議があったのか、翌日…功治一年(1555年)3月16日。弘中隆兼は陶尾張守(=陶隆房)に頼まれて江良(=江良房栄)を成敗しました。神領衆は江良丹後守(=江良房栄)が居なくなったので、頼る親を失ったように悪い状況になりましたが、小方(=廿日市小方)・大竹(=大竹市)にまだ居ました。
卯月(=4月)8日に小舟7、80艘で(宮島へ)押しかかりました。沖と陸から弓を射ていました。その時、本地堂(=本地仏を設置している場所…現在の本殿の裏にあった)で管弦経がありました。それで退却していきました。
その次は5月13日。周防の警固船100艘ばかりで押し上り、有ノ浦を焼き払いました。児玉三郎左衛門尉が討ち死にしました。そのまま敵の船は退却しました。それ以後は陶尾張守(=陶隆房)は山里黒瀧(=廿日市市友田の高立城)に在陣していると、この方(=毛利のこと)が狼倉山(=廿日市市友田)に要害をこしらえて、迎える城にしました(=狼倉山城)。

殺される江良

棚守房顕覚書86 厳島の戦(1)に3月16日に宮島にやってきた江良一行でしたが退却。しかし、陶隆房に命じられた弘中隆兼(=弘中隆包)に殺されます。江良は大内の家臣であり「陶側」だったのですが。

江良房栄は勇将で毛利元就も一目置く人物。主に武も優れていましたが、宮島にやって来る上方商人から通行料を徴収する交渉を行なっていることから「官僚」としての能力もあったようです。毛利元就はこの時点で、大内・陶と敵対する関係。江良房栄という優秀な人物を毛利側に引き入れようと交渉していたようですが、どうも江良房栄は拒否。毛利の資料では「寝返りの見返りを多く求めた」ことから毛利隆元が立腹したとあるのですが、歴史は勝者によって作られるという原則を考えると史実は「江良房栄が忠臣だった」のかもしれないですね。

毛利からしてみれば寝返らない江良房栄は、ただただ危険なだけ。そこで「江良房栄は毛利と内応している」という噂を流したよう。その結果が「陶隆房の命によって江良房栄が殺される」という結果です。謀略の鬼、毛利元就の本領発揮ってところでしょうか。

しかし、防州の宮島侵攻はまだまだ止まらない。宮島がいかに「要衝」だったかという証明か。いや、宮島こそが「安芸国の支配者」である証拠だったのではないでしょうか。
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