棚守房顕覚書86 厳島の戦(1)

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棚守房顕覚書86 厳島の戦(1)

天文23年(1554年)寅の年のも暮れ、功治一年(1555年)卯の年に明けると警固船4、50艘で再々、当島(宮島)へ取りかかりました。江良丹後守(=江良房栄)は3月15日に当社の祭礼で警固150艘で佐東に入りました。塩船を2、3艘を浮き取り(=ぶん取り)して取り、帰る時に当島(宮島)に押しかけ、その砌(=ミギリ=その頃)、参詣の衆たちは、先年の多賀居(=田賀谷)の古物語などを申し聞かせると、江良が船から一人海底に飛び入りました。防州の警固船は、矢をかける(=矢を射る)ことができず、両方の矢は射知あうこともなく、そのまま敵船は下向しました。

ここまでの事情

長いので細切れにしています。
この時点ではすでに宮島は毛利元就の管轄下にあります。そこへ宮島を奪おうと防州(=陶・大内)が取りにかかります。よほど宮島は交通の要衝なんでしょうね。
棚守房顕覚書82 備後の江田氏を討つ」でも登場した江良丹後守(=江良房栄)がその役目を負ってやってきます。江良房栄は毛利元就が認める勇知を兼ね備えた武将。彼が佐東(佐東銀山城)へと行き、その帰りに宮島に押しかけた。

厳島の神の力

その防州の人たちに田賀谷の一件の話をした。田賀谷の話は「棚守房顕覚書8 多賀谷氏の暴戻」などにもありますが、要は「厳島神社に無礼を働いたら風が吹いて船が揺れて、落ちて死ぬぞ」ということ。それで暗示にかかったのは、一人が海に落ちた。それで恐ろしくなったのか、防州の船は帰って行った。

いかに厳島の神はすごいか!って話ですね。
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