棚守房顕覚書81 義隆以下自刃

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棚守房顕覚書81 義隆以下自刃

陶衆千騎ほどで取り籠め(取り囲む)るために参り、大内義隆の7つになられる若君(=大内義尊)、二条殿(=二條尹房)、御方様(=奥さん=大内義隆の妻のおさいの方)、16の小幡四郎(=小幡義実)、16の大内冷泉院?、天野藤内(=天野隆良)、三条殿(=三条公頼)など部下の衆、八幡の祝の右延(右信?)、以上十三人は腹を切って討ち死にしました。そのほかの衆と屋形方の衆は討ち死にしました。

大寧寺の変

大内義隆が死亡。
大内義隆の息子である大内義尊が死んだことで直系は断絶。この後、陶隆房が大友義鎮の異母弟で大内義隆の甥の「大友晴英」を迎えて、陶晴賢と名前を変えて、権力を握ることになりますが、そんなことをするのであれば、大内義尊を殺さず当主にした方がよかった、ような気がしないでもないような。まぁ、これは戦乱の混乱の中でのことですから、そんな悠長なことができるかっていうと、無理でしょうけど。

下克上の要因
大内義隆は陶隆房が謀反を起こす以前から、部下の杉重矩や冷泉隆豊などから陶隆房の危険性を指摘されながらも一切対応策を取らなかった。それが大内義隆の自害の大きな要因になりました。
陶隆房が謀反をした背景には、大内家臣団の中の文治派と武断派の対立があります。陶隆房は毛利やその他の国人衆に根回しをしていて、ほとんど大内の味方をするものはほとんどいませんでした。

公家が殺される理由

大内義隆の散財の穴埋めのための課税で領民の不満が高まっていたこともあって、その散財が京都から公家…というか芸術家を呼び寄せておもてなしをするってのが主で、公家が「重税の象徴」で、大内をたぶらかして散財させたクソ野郎というのが世間の認識だったのではないかと思われます。
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