棚守房顕覚書80 義隆ら山口を去る

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棚守房顕覚書80 義隆ら山口を去る

一、大内義隆は天文20年(1551年)8月28日。屋形(=大内義隆=ここでは大内義隆の集団全体)を宝泉寺へと退却させました。公家衆が大勢いた山口でしたから、郷人(=地元の人)は屋形(=ここでは山口の義隆が住んでいた家)に入り、乱暴しまして、陶の番衆(警護の人)たちは気負う心が限りなくありました。その後、宝泉寺の屋形衆(=大内義隆の集団)は各々が逃げ隠れしまして、大内義隆は十二、三人で長門の仙崎で小舟に乗って、何処かへと下向しようとしたのですが、波風が悪く、船は漕いでも戻って、大寧寺に入りました。

解説

棚守は当然、山口に付いて行った訳ではありませんから、伝聞で聞いた話でしょう。ただ、いろいろな人物と交流があった棚守ですから、全く事実無根とも言えない。
さて、大内義隆はついに西の小京都とまで讃えられた山口から離れ、宝泉寺に逃げます。大内が住んでいた屋敷には陶の部下が入り込んだ。すると郷人が、そこにいた公家たちに乱暴した。公家っていうか、彼らの関係者である女性でしょう。それを見ていた陶の部下の番衆は心を痛めた。軍に統率ができていなかったのかもしれない。もしくは、大内義隆の浪費にために重税が課せられていて、郷人(=地元の人)たちの不満は抑えきれないところに来ていた、ということかもしれない。
●大内の浪費は公家文化を取り込むことに費やされた。主に公家を山口に呼び寄せて、お金をかけて饗応した。つまり山口では「大内の散財の原因は公家」という認識があったわけです。地元の人にとって公家は憎しみの対象だった。だから乱暴があった。

大寧寺の変へ

宝泉寺に逃げた大内ですが、もはや大内もこれまでとして、部下はどんどん離脱。この辺りはよほど大内の器が小さかったってことかなと。それでついには12、3人の部下だけになり、これでは宝泉寺に篭っても、どうにもならないと小舟を漕いで海を渡って再起にかけるのですが、波風で漕いでも漕いでも押し戻されてしまい、仕方なく大寧寺に入りました。

結局、この大寧寺で大内義隆は自害することになります。これが「大寧寺の変」です。
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