棚守房顕覚書71 九條稙通社参

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棚守房顕覚書71 九條稙通社参

九条殿(=九条稙通)が山口へ下向するとして、当島(=宮島)にご参詣しました。棚守を尋ねられて、山口へ推挙の儀をおっしゃられましたが、思案がありませんから、一忍軒菅務職へ書状を進めましたが、一向に取り合わなくて、防府から追い返せと申されまして、そのまま上洛(=京都に行くこと)しました。

九条稙通

九条稙通は永正4年(1507年)の人物。
なんと文禄3年(1594年・享年88)まで生きた。
内大臣で関白で藤原の氏長者…つまり後継者なんですが、天文2年(1533年)には辞職。具体的な年代は分かりませんが、この棚守の記述の時点ではかなり経済的に困窮していた(関白の時も裕福ではなかったらしい)。それで中央から離れて播磨や摂津で生活していた。その頃に仕事を求めて…九条稙通はかなりの文化人ですから、京文化大好きの大内義隆を頼って宮島に来たよう。ところが、けんもほろろで断られた。
●九条稙通は「棚守房顕覚書70 二條尹房社参」に登場する二条尹房の子供を養子に迎えている。宮島に来たのは二条尹房の優遇があったから?かもしれない。
●ちなみに二条尹房の妻は「九条尚経の娘」。九条尚経は九条稙通の父親。二条尹房は九条稙通は義理の兄弟にあたる。義理の兄弟の子供を養子にしたってことですね。ややこしい。

注目すべきは棚守房顕が大内義隆の御師(=宗教的指導者)であるとはいえ、「棚守に口を聞いてもらえば、大内の仕事をもらえるかも!」と九条稙通が考えたってことですね。棚守や大内がどう考えていたか分かりませんが、少なくとも九条稙通はそう考えた。そして世間も似たような認識があったのではないでしょうか。厳島神社の神主ですらない、神官職の棚守に「そのくらいは出来るだろう(出来るかもしれない)」と世間では思っていた。
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