棚守房顕覚書68 広橋兼秀社参

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棚守房顕覚書68 広橋兼秀社参

広橋殿(=広橋兼秀)が山口から上り、参詣がありました。宿坊は道場神泉院。当社に二夜三日、逗留しました。棚守の宿所に出てこられて、懸香を50包持たせられました。

広橋兼秀

広橋兼秀は永正3年(1506年)から永禄10年8月5日(1567年9月17日)までの人物。公家で、武家伝奏という役目を持っていました。武家伝奏は武家の要望を朝廷に伝える仕事。読史余論には天文5年(1536年)6月に「中納言藤原兼秀勅使が周防に下向して、左京大夫義隆(=大内義隆)を太宰少弐に任命した」とあるので、その帰途ではないかと思われます。大内義隆は太宰少弐に任命されたことで大義名分を得て北九州を平定します。実は広橋兼秀の山口入りは大内にとってかなり大事なことです。
ちなみに前のページの「棚守房顕覚書67 萬里小路惟房社参」の万里小路惟房も永禄11年(1568年)からは武家伝奏の役に就いています。

この広橋兼秀が宮島に来た年が全然分からないです。

神泉寺

神泉院は「神泉寺」。平清盛の妻の二位の尼を祀っている寺です。現在は寺の跡しかありません。そこに広橋兼秀が宿泊したと。
そして棚守の宿に来て「懸香(=匂い袋)」を「50包」を「持たせた」。誰に、匂い袋を「持たせた」のか?? うーん、まぁ、筋から考えれば、やっぱり「女」でしょうね。女に匂い袋をプレゼントした。棚守の宿には女がいて、女がお客を接待していたんじゃないかと思います。女は巫女のことではないかなと。
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