棚守房顕覚書59 義隆三入に移る

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棚守房顕覚書59 義隆三入に移る

義隆三入に移る
大内義隆は金山(=佐東銀山城)の御陣を替え、三入(=安佐北区三入)に至りました。天文10年(1541年)8月22日です。三入の観音寺の宿です。再々、参上申し上げました。

神主任命
棚守房顕を11月20日によびだし、厳島神社の神主職を仰せつけられました。小方加賀守の息女と相具(=結婚すること)しました杉刑部少輔(=杉隆真=佐伯景教)を仰せつけられるので、馳走すべしとなり、承り、帰島しました。

神主来島
12月22日、渡海し、神主(=杉隆真=佐伯景教)と共に列に並んだ神領衆は、惣公文、政所、大野兵部丞、野坂左衛門大夫、熊野玄蕃允、高井松丸、西河内、坪井、三宅、その他の桜尾の小近習どもを取集めて、3、40人が来ました。南(南町)の摂受坊宿に泊まりました。

解説

大内義隆は現在の安佐北区の三入に陣を移し、そこに棚守房顕は何度か伺っていた。三入に陣を移したのは戦後処理を行うため、安芸国の治安維持のためでしょう。
その後、棚守房顕を呼び出し「杉隆真に神主をやらせるので、その儀式を手配しろ」と命じられます。ちなみに、小方加賀守は友田興藤と神主職を争った相手。つまり、この騒動の発端の人物。友田と小方はそもそもが、元々の厳島神社の神主職「藤原興親」の甥です。だからこそ彼らは跡目を巡って争った。そこで、友田が死んだ今、その小方の娘と杉隆真が結婚して神主に就任。さらに杉隆真が、藤原氏が神主に着く前に神主をやっていた「佐伯」の名前をつけて、佐伯景教と名乗るようになります。景は佐伯景弘から貰ったものです。

棚守の意図

年末に宮島で新しい神主を出迎えます。そのときに、神社の役職のものとともに、桜尾の人間も参加しています。桜尾城は友田が立て篭もった城。友田が謀反したのは決して友田だけの意思ではないでしょう。そこには神領衆たちの意思もあったはずです。神領衆は「反大内」だった。でも桜尾の人間を参加させている。これは「色々あったけど、今後は仲良くやっていこうよ」というメッセージでもあります。
「棚守房顕覚書58 義孝の戦後処理、房顕の斡旋」でも似たように修理行事親家を棚守が庇う記述があります。どうも棚守房顕は神社運営…要は儀式を継続することを第一に考えていたようです。
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