棚守房顕覚書57 義隆金山城に移る、房顕ら対面する

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義隆金山城に移る、房顕ら対面する

天文10年(1541年)5月24日。藤掛(=廿日市市藤掛)と七尾(=廿日市市の地名)から佐東金山城(=佐東銀山城)に陣を替えました。棚守房顕は6月5日に佐東銀山城に参上しまして、すぐにご対面しました。佐東の官幣社は以前は厳島神社の末社だったので、房顕にくださった。

その後、社家の年寄り達を引き連れていきまして、棚守が参上し申し上げるべきことがあり、供僧には修善坊、祝師秀久、田内蔵助親尊たちと佐東銀山城に参上したところ、大内義隆は厳島神社の往古(=古い)の年中の目録をご覧になりました。正月元旦から歳暮までの年中の神事は「3850石」を御倉から下行したとあり、その他、臨時の御神事は数を知れないほどありました。内外に定まる神事は380度あり、大内義隆の心中にはこの目録をご覧になった以上は往古を調整して(復活させて)欲しいと仰せられたといえでも、神領の上(京都側)から己斐、草津、半坂尾(=廿日市市吉和)、石道(=石内)、吉木、五日市、北は太田(=太田庄)を限りとし、西は安芸大竹を限りとし、小方、久波、黒海(=黒河)、大野、山郷四郷、平良、宮内、所領を計算すると、6、7000貫ありました。上意に往古の目録にあった3850石に対して6、7000貫を当てて、寄進があるべきと思うとおっしゃられたところ、奉行衆とその他が言いました。上意(=大内の意思・命令)の考えはごもっともではあるのだが、そうであっても、その在所(=先ほどの神領)を切り取って、そのところに城番を置いて、要害物を置いて、所領にしなくてはどうなるか? その在所の味方の侍達が諌めてもそうしないならば……
処置はありがたく、山郷四郷をことごとく寄進され、廿日市東西の地領銭35貫、転経(お経を省略して読む儀式)の三日間への御供、社家・供僧への勘定(=報酬)、このうちの1貫800文は執行坊の裁判の布施、地莚の代物です。平良、宮内の神領社領のことはいうまでもなく、社家・宮島のご法度を申し付けました。

解説

沼田郡にあった官幣社を棚守房顕に与えた。元は厳島神社の末社だったらしいです。しかし、これが具体的にどの神社なのかは分からないです。

棚守は神社の関係者を連れて大内義隆に会い、古い目録を見せた。その目録は大量の神事が書かれていて、年間で380回。そのほかに臨時の神事は莫大。昔はこれらの神事を行うために、御倉…つまり公的なところから出資があったそれが3850石。神社は領地を持っていて、その収益を当てていた。この領地の範囲が結構大きい、宮島に来た人なら、西広島駅から宮島口までは完全に神領。宮島口からまさ先も神領ですから、交通の要地を厳島神社が抑えていることになる。その土地の収入がこの当時で6、7000貫。この6、7000貫を昔の目録でいう「3850石」の代わりにしようと考えた。江戸初期から中期では1貫を現代のお金に換算すると25000円。では6000貫はいくらになるかと言いますと、1億5000万円。7000貫だとすると1億7500万円。これが厳島神社の「年収」だというのです。大内義隆は「まぁ、いいんじゃないか?」と言ったのですが、周囲の人たちはそんな訳にはいかない。なぜなら、その土地は合戦の上での「要害」だったのです。それに、そもそも、この友田の反逆は友田が神主を自称したことが始まりですが、実質、友田の部下の神領衆が大内に歯向かったのと大差ないのです。しかも友田が破れるとサッサと友田を捨てて逃げた。神社にまた神領・社領を与えれば、同じ混乱が起こる可能性が高い。そこで領地は小さくして現金を与えることにした。
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