棚守房顕覚書55 義隆ら外宮社参

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棚守房顕覚書55 義隆ら外宮社参

外宮(地御前神社)の端午(5月5日)の神事に50貫、50俵を下行されました。棚守房顕は(神事を)執行しました。流鏑馬などありまして、御馬どもを出され、諸陣の見物晴れがましく、恒持(=一条常持=大内晴持=大内義隆の養子)は見物していました。はたまた、5月7日。外宮に社参すると仰せられて、その旨を受けて、御神物は御太刀2つ、神馬2匹、御共と参られました。七尾から参詣されました。すぐに帰陣しました。

解説

このとき1541年。一条常持は1524年生まれですので17歳かそこらです。ちなみに1543年に出雲意宇郡で溺死しています。地御前神社では鎌倉時代に武士の藤原氏が神主になってから、流鏑馬が神事として行われていました。その神事を一条常持が見物した。ここの記述にどの程度の政治的な意味合いがあったのかは、なんとも言えない。5月12日に佐東銀山城を討ち果たすので、そのための祈願もあるのでしょうが、そこに「一条常持が見物」という記述がどこまで必要なのかはなんとも。

一条常持とは

一条常持は公家の一条房冬を父とし、母親は大内義隆の姉。大内の血も引いていることから、まだ嫡子のない大内義隆の養子としてわずか3歳で迎えられました。公家の素養を持っているからか、和歌・蹴鞠に秀でていました。そして美少年だったと言われています。
大内義隆というと複数の部下(男性)と肉体関係を持った人物。部下の陶隆房との関係は特に有名。この養子の一条常持(大内晴持)とも愛人関係だったという噂はあります。叔父と甥でか…と思いますが、そこはあくまでゲスな噂。しかし、美少年だったのは事実でしょう。

棚守は美少年趣味?

ところで当時14歳の美少年の陶隆房が父との別れでメソメソしている様子を見て「あわれー」とニヤニヤしている様子が「棚守房顕覚書28 陶興次の帰国」にあります。そして地御前神社で流鏑馬を見物している17歳の美少年の一条常持の記述。どうも棚守房顕は美少年趣味だったのではないかと疑いたくもなりますね。時代が時代で、日本人が美少年趣味だったので、棚守だけが変態的美少年趣味だったわけではないので、そこは差し引いて考えないといけないのですが。
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