棚守房顕覚書54 房顕、七尾に義隆と対面、義隆社参

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棚守房顕覚書54 房顕、七尾に義隆と対面、義隆社参

大内義隆が居る七尾の陣から棚守房顕を招集しました。
天文10年(1541年)4月11日に渡海して、来たる17、8日に社参あるだろうと思い、宿を用意してお仕えすべしと、申しつけられたのですが、混乱するようなことになれば、思い通りにはならずに是非に及ばず(=無意味なこと)となると雖も、要請を申し受けて帰って、宿をなんとか調整していると、4月17日に大内義隆が渡海されて、二泊三日逗留し、18日の社参は旧例(=先例)に習って、経会、舞楽を執行しました。

御神物は両社(=厳島神社地御前神社)に御太刀を2つ。いずれにも銘のもの。神馬12匹。膝突(=臣下が膝まづく時に敷く敷物)4貫400文。弥山に5貫。瀧宮(=瀧宮神社)へ10貫。導師の布施トンキン2反。舞楽料120貫。坊の布施100貫文。房顕の子の大夫丸に扇を5本。御太刀長光をくださりました。

4月19日。大内義隆は宮島に在島していました。社家三方(社家、内侍、供僧)の年寄りどもを呼び寄せて、当社の往古からの神事、祭礼の目録を閲覧したいと仰りました。神前の目録などをご覧になって、何れも追って仰せつけられるべき由にて帰城しました。今度は大元神社から下へ船に乗って島を見物して七尾の陣へ帰りました。

解説

大内に呼び出されて、近いうちに宮島に行くよ!と言われて、果たして何日頃に来るのか分からないのですが、準備だけはしていたら、予定通りに17日にやってきて二泊三日ほど島にいて、その間に神事を行った。弥山、瀧宮にもお金を出して居ることから、これらが信仰の対象として強い意味がこの時にもあったと思われます。

房顕の子供に扇を贈っているのが凄い。

この時点で棚守房顕は47歳。我々は棚守房顕が97歳まで生きることを知って居るので、まだまだ若い気がしますが、当時としてはそろそろ死んでも不思議でもなんでもない年齢。息子の「大夫丸」に扇を贈ったのは、「厳島神社の権力者は棚守房顕であり、その権力は息子に受け継がれるものとする!」という大内からのメッセージじゃないかと思います。大内としては友田が厳島神社の神主となり、謀反を起こしたことを考えると、神主は飾りにしたい。そのためには神主ではない棚守の血筋を権力者として認めて固定したいわけです。そのための一手ですね。

もう一点として、大元神社から船に乗って島を見物…ってのも興味深い。
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