棚守房顕覚書53 大内軍佐東金山城を攻める

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棚守房顕覚書53 大内軍佐東金山城を攻める

吉田へ御合力(=援助)した陶、杉、内藤と毛利殿をはじめとし、佐東金山城(=佐東銀山城)に天文10年(1541年)5月にうち入りました。武田光和は昨年の天文9年(1540年)6月に病死したといえども、洞(党?)ノ賀川、早川、斎藤、内藤、遍見、親類の伴、その他の被官(=下級官僚)の者共は金山を持?免、在城でした。陶大将は陣を南の御所に陣取り、その他は、それぞれがあちこちに陣を取り、毛利元就は金龍寺(=広島市安芸南区の武将山立専寺のこと)の山を陣取りました。これらは佐東の表のことです。

解説

吉田郡山城で毛利と尼子が戦った時に、助けに行った大内の配下の陶・杉・内藤と、毛利が広島市安芸南区の佐東銀山城に討ち入ることなりました。ここは安芸武田氏の居城、別名が「武田山」。安芸武田氏はかつては友田を援助して謀反させたのですが、それに失敗すると後はズルズルと衰退していました。この時点ではもはや大内の敵ではないのですが、まぁ、憂いの種は完全に立っておこうということでしょう。

陶は南に陣を張った。毛利は金龍寺…現在の立専寺の付近に陣を張った。立専寺も佐東銀山城から見れば南。陶と毛利がどういう位置関係だったのかは、なんとも言えません。どちらがより前線だったのか?
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