棚守房顕覚書52 神主家滅亡

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棚守房顕覚書52 神主家滅亡

あくる日の天文10年(1541年)4月6日。五日市の城へと大内軍が取りかかりました。4月8日。宍戸彌七郎は友田広就に腹を切らせました。その時の有様はこのようでした。掃部頭(=友田広就)はことの外、精彪な強弓で、防州の陣に矢を三筋射ち、弓を切り折り、腹を切りました。頭を切り、鞁桶に入れて、弘中三州に渡しました。弘中三州は受け取り、七尾で4月9日に首実検をしました。大内義隆は小手小具足、飯田石見守(=飯田興秀)も小手小具足で御目にかかりました。4月9日桜尾で勝鬨(カチドキ)をあげました。これらは神領表のことです。

解説

これにて五日市城の友田広就が死亡。最後に弓を放ち、弓を折ったのは自分の武器が他者に渡るのを嫌がったからだと思います。神領衆…つまり友田側の宍戸彌七郎が切腹した友田広就の頭を切り取り、それを革桶に入れて弘中三州に渡しました。弘中三州が大内の陣がある七尾へと持っていき、そこで首実験をします。戦国時代では、誰がどの重要人物を討ち取ったのかと言う検証を行い、はっきりさせる必要があります。そこで陣に持ち帰って、お偉いさんの前で顔の確認をします。それが首実験です。論功行賞には絶対必要な作業です。

小手小具足

そのとき、大内と飯田興秀が「小手小具足」であったことが書かれています。小手小具足は戦争時の姿で防御のものではあるのですが、完全防備ではなく、戦時でもゆったりとくつろげる格好です。戦争が終わったことを暗に示しているか、大内が圧倒的で余裕があったことを指しているのではないかと思います。
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